2012年5月19日土曜日

ホール-51についての情報|海外ホテル予約のトリップスター


Holiday Inn Fort Erie / Holiday Inn Fort Erie

[ 国 ]:カナダ [ 都市 ]ナイアガラフォールズ() ナイアガラの滝から車で約15分のリゾートエリアにある。フォールスビュー・カジノからも約15分。バッファロー市街からは5分ほどの距離。 道を挟んだ向こう側にはフォート・エリー・ゴルフコースがあり、YMCAやレジャープレックス(アイススケートリンク2面)、タウンホールなども隣接している。 全107室の客室はどれも設備が充実 ...[続きを読む]

[設備]: 標準客室設備 電話回線,エアコン,テレビ,衛星放送テレビ,インハウス映画,ラジオ,直通電話,ドライヤー(フロントにて貸出しの場合がございます),ズボンプレス,モーニングコール,電圧ボルト 110v 施設・サービス ゆったりしたロビー,チェックイン時間(当日の空き状況による) 11:00,エレベーター2機,24 時間ポーターサービス,ルームサービス 7:00から 22:00まで,1 屋内プール 温水,4 階建て,駐車場(大型バス可),駐車場(有料の場合はホテルに支払ってください),ジム,サウナ,美容サロン,ランドリーサービス,ビジネスセンター,障害者用設備

/ Congress

アイロンサービス ? 両替 ? ギフトショップ ? 靴磨き ? ランチパック ? レンタカー ? ツアーデスク ? FAX/コピー ? チケットサービス ロケーションパノラマビュー ? 旧市街 ? 川 便利な客室、エレベーターが2基、セイフティボックス、電子ドアロック・システムを完備。サウナ(バンケットホール付き)でゆっくりとお過ごしいただけます。パーティーの手配を承っております。お祝いからフォーマル ...[続きを読む]

[設備]: 標準客室設備 エアコン,ケーブル/衛星テレビ,プレイペイトバス,電話,アイロン& アイロン台,ミニバー,ヘヤードライヤー,ボイス,モーニングコール,ダイアルアップインターネットアクセス 施設・サービス コンシェルジュ,フィットネスセンター,会議/宴会,ノンスモーキングルーム,レストラン,バー/ラウンジ,洗濯/ボーイ,駐車場,エレベーター

カンクン パレス / CANCUN PALACE

2012年5月17日木曜日

Km10070


ProMEDメール2011-03-12の感染症に関連した情報を配信します。

1.不明死。タイ。女性23歳が死亡。エコーウイルス? ほかに4人も死亡
2.牛の不明死。パキスタン・シンド州。50頭は原因不明の疾患で死亡
3.鳥インフル。インドネシア西ジャワ州。少年2歳。2/4発症、死亡
4.狂犬病。吸血コウモリ。ペルー。女性23歳は死亡。娘2歳も死亡
5.ハンタウイルス。チリ。アラウカニア州。患者疑いは女性27歳
6.OIE。口蹄疫。南アフリカ。種/暴露/発症=牛/1183/854、山羊と羊=28/12
7.マレーバレー脳炎。オーストラリア。男性1人の死因か? 馬3頭は患獣
8.WHO。黄熱。シエラレオーネ。女性40歳、1/17発症。男性18歳

1.不明死。タイ。女性23歳が死亡。エコーウイルス? ほかに4人も死亡

2012年5月16日水曜日

ブッシュはなぜ戦争を始めたのか


1. 9.11はアメリカの陰謀か

2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ事件[n]、所謂、9.11以降、ブッシュ政権は、「テロと戦うため」と称して、アフガニスタンやイラクを攻撃した。しかしながら、これらの戦争の出発点となった9.11に関しては、事件発生直後から、アメリカ政府による謀略ではないかという疑いがもたれている。一口に陰謀説といっても、いろいろな説があるわけだが、大きく分けて、アメリカ政府は、テロの計画を知りながら、その防止に努めず、むしろそれをアフガニスタン攻撃の口実として利用しようとしていたとする穏健版陰謀説と9.11はアメリカ政府による完全な自作自演であったとする過激版陰謀説の二つがある。

[n] 日本のメディアは「同時多発テロ」という名称を使っているが、英語圏では、"9.11"という名称が一般的である。読み方は、アメリカでは"September (the) eleven(th)"、イギリスでは"the eleventh of September"である。日本では、2.26(にいにいろく)事件などの読み方にならって、「きゅういちいち」と読むのが正しいようだ。

穏健版の陰謀説は、事件が起きる前に、イスラエル、ドイツ、ロシア、イランなどの国の情報機関から、テロの計画の情報がアメリカに通告されていたにもかかわらず、アメリカ政府はこれを無視し、事件当日も、アメリカ空軍が、テロ被害の拡大を防ぐための適切な措置を行わなかったことから生まれた [田中 宇:仕組まれた9.11―アメリカは戦争を欲していた, 第一章]。

2001年8月6日に、ブッシュ大統領がCIAから報告を受け、ハイジャックされた航空機による攻撃の事前警告を受けていたことを、ライス大統領補佐官が2002年5月15日に、そして、翌日(2002年5月16日)には、フライシャー報道官が、9.11の2日前に、ブッシュ大統領にアルカイダ掃討の詳細な戦争計画が渡され、戦争への大統領令を発動する準備が進められていたということを公式に認めた[r]。これで、なぜアメリカ政府が、事件後即座に、ろくに調査もせずに、事件の首謀者をオサマ・ビンラディンと断定したのかという謎を解くことができる。穏健版の陰謀説は、正しかったのだ。

[r] ライス米大統領補佐官(当時)は、2004年4月8日午前、米独立調査委員会の公聴会で証言し、9.11の約1カ月前に提出した大統領への報告日録の表題が「オサマ・ビンラディン、米本土攻撃を決意」で、「非常に大きな事件が起きる」などの通信も傍受し、国際テロ組織アルカイダが米本土を攻撃する意図を事前に認識していていたことを認めた。大統領補佐官は、「航空機を兵器として使うという分析が報告されたことはなかった」と語り、事件は想定外の攻撃方法だったと言っているが、2004年4月19日付の米紙USAトゥデーによると、北米航空宇宙防衛司令部(NORD)は、9.11が起きる2年前に、テロリストに乗っ取られた航空機が世界貿易センターなどに突っ込む「自爆テロ」を想定して模擬演習していたとのことである。

2. 過激版の陰謀論

過激版の陰謀論[m]は、さらに一歩進んで、9.11の首謀者がアメリカ政府だとまで主張する。9.11の首謀者はオサマ・ビンラディンで、実行犯はイスラム原理主義者というのがアメリカ政府の主張であるが、その証拠とされるものは、どれも疑わしいものばかりで、実行犯とされたイスラム原理主義者たちの名前は、実際には、公式の搭乗者名簿に一人も載っていなかったと言われている。では、その場合、実行犯は誰だったのか。実は、アメリカ政府は、この問題を含めて、事件の真相解明に熱心ではない。例えば、アメリカン航空やユナイテッド航空など、テロ直後急落した会社の株の大規模な空売りで巨額の利益を手にした投機家がいるが、SEC(米証券取引委員会)は、首謀者を突き止める上で重要なこの情報を公開しようとし ない。

[m] 過激版陰謀論の中で最も有名なのは、フランスでベストセラーになった、[Thierry Meyssan:The Big Lie(英訳)] である。Thierry Meyssan は、ユナイテッド航空の757機が激突して米国国防総省(ペンタゴン)ビルの一部を破壊したという通説を批判している。破壊された箇所が、飛行機よりも小さく、現場に、飛行機の残骸が全く残っていないことが根拠である。

2012年5月14日月曜日

大航海時代


大航海時代

大航海時代

 こんなユーモアを知っているだろうか。

 江戸城を造ったのはだれ?
 徳川家康。じゃなくて、太田道灌ってオチだろ?
 違います。大工さんでーす。

 くだらないといえばそれまでだけど、ぼくはこういう話が大好きでねえ。それに多少なりとも、真実を含んでいる。じっさい、大工がいなければ城は建築できない。

 さて。先日、掲示板で「大航海時代」についてのエッセイが読みたいというリクエストをいただいた。このときぼくは、そもそも、ポルトガルとスペインに、危険な航海を決意させた理由はなんだったろうと考えた。

 香辛料が欲しかったから? 領土を拡大したかったから? それとも、イスラムとの戦争が一段落ついて、航海に必要な資金を捻出できるようになったから?

 ど� ��も正解だ。もしテストの空欄を埋める気なら、一番の「香辛料」を書き込むだろう。でもぼくは、徳川家康と大工のジョークを思い出した。ポルトガルとスペインが、海原に舟をこぎ出した本当の理由は……

 コンパス(羅針盤)が発明されたからさ!

 だから、コンパスの話からはじめようじゃないか。

 コンパスが発明される以前の航海は、近海航法という方法をとっていた。読んで字のごとしだけど、船をあまり陸地から遠ざけないで、陸地を見ながら船を進めていたんだ。だって、陸地が見えなきゃ怖いじゃんか。迷子になっちゃうもん。

 え? 星の位置を見て航海すればいいじゃないかって?

 もちろん、その通り。コンパスが発明される以前の船乗りたちは、太陽と星を利用していた。太陽は東か ら出て西に沈むから、ひとつの方角がわかれば、あとの方角もわかる。朝と夕方だけでなく、正午の太陽は南を知るのに役立った。夜になれば、北極星があった。これはもちろん、北を知るのに役立った。

 これでオッケイ? よし、さっそく太陽と星を頼りに、海原にこぎだそう!

 いやいや、船乗りたちは、太陽と星だけでは満足しなかった。だって、長い航海の間中、いつも晴れているはずだとだれが思う? じっさい、雲が出ている日のほうが多いから、こんな神頼みの方法で、陸地の見えない大海原に出る気はまったく起こらなかったんだ。

 想像してごらんよ。辺り一面、海しか見えない。方角もわからない。それどころか、正確な地図もないから、どこに行き着くかもわからない。どこかに行き着いたとして� ��、たぶん、帰ってはこれないだろう。こんな旅に出たいと思うかい? あなたが十分に勇気があるなら、思うかもしれないけど、ヨーロッパの船乗りたちは思わなかった。まあ、ポリネシア人はやってたぞという人がいるかもしれないけど(たしかにその通りだけど)、彼らのは計画的な航海じゃなかった。ひどく危なっかしくて、じっさい、ほとんど成果はなかった。やはり、本格的な航海は、コンパスの登場を待たなければならない。

 じつは、コンパスを作るのに必要な磁石は、はるか太古に発見されていた。なんと紀元前五八五年ごろまで遡れるんだ。見たり聞いたりしたことをすべて記録したといわれる、ローマの博物学者プリニウス(紀元二三〜七九年)の著書に紹介されてるんだけど、ギリシアの羊飼いが、鉄のほか� ��はくっつかない鉱物を見つけたらしいんだ。その羊飼いは、ギリシアのマグネシアという街に住んでいたから、その鉱物は「マグネシアの石」と呼ばれた。ぼくらが磁石のことを「マグネット」と呼んでる理由がわかってもらえたかな?

 なんか、豆知識って感じになってきたけど、このマグネットをコンパスに利用するようになるまでには、人間は長い長い時間を必要とした。最初に、磁石が北を示すことを見つけたのは中国人かもしれない。紀元一二一年に書かれた書物に、そのことが載っている。ところが、中国人は、コンパスを航海には利用しなかった。そもそも、中国人はあまり航海が好きじゃなかった。陸を歩くのを好んだんだ。もしも中国人が、海にすごく関心を持っていたら、シルクロードは、「シルク航路」にな� ��ていたかもしれない。でも、じっさい、そんなことにはならなかったから、中国人のことは忘れよう。(わかってる。たしかに中国人も海を利用してはいた。海のシルクロードと呼ばれる道もあったろう。でも大規模ではなかったのだ)

 じゃあ、本格的に、コンパスを航海に使った最初の人物はだれだろう?

 残念ながら、それはよくわかっていない。一二〇〇年ごろ、イギリスの学者アレクサンダー・ネッカム(ベッカムじゃないよ)が、海上で方向を知るために、磁石を使う方法を述べているけど、ネッカムは、中国から伝わった方法をそのまま書き記しただけで、自分では研究しなかったらしい。

 一二六九年になると、もうちょっとマシな学者が現れた。ペトルス・ペリグリヌスというフランスの学者だ。この� �は、ルイ九世の軍隊の技師だった。ルイ九世といえば、六回目と七回目の十字軍を指揮した王さまだ。ペリグリヌスは、どうやら、その退屈な戦争の間に、磁気の研究をしたらしい。彼は、その実験について、友人への手紙に書き残した。というか、その手紙しか残ってないんだ。大々的に研究を発表すれば、もっと有名になれたろうに。

 ともかく。ペリグリヌスの手紙には、今日のわれわれが、「磁場」と呼ぶものを推論したことが書かれている。また、船のコンパスをただの無地じゃなくて、各方位を記したものの上に支えるというアイデアを考え出した。われわれがよく知っているコンパスの原型は、彼が考えたものなんだ。

 オッケイ! ペリグリヌスくん、よく考えてくれた。きみのおかげで、コンパスはほぼ完成� ��たよ。

 ここで、ちょっとコンパスのことは忘れて、大航海時代の基礎を作った人物に登場してもらおう。彼の名は、エンリケ(1394〜1460)。

 このオッサンは、ポルトガル王ジョアン一世(1357〜1433)の王子で、ヨーロッパ中から腕利きの船乗りを集めて、一四二二年から、アフリカ沿岸の探検航海を指揮したもんだから(しかも、何度も)、ごたいそうにエンリケ航海王子なんて呼ばれてたけど、じつはご本人は船酔いがひどくて船には乗れなかった。

 まあ、それはそれとして、このエンリケ船酔い王子…… 失礼。航海王子の時代に信じられていた世界をみなさんにお見せしよう。こいつは、プトレマイオス世界地図ってやつだ。


 いかがかな? ごらんのように、アフリカが、ぐるーりと、キタイ(当時中国はキタイと呼ばれていた)と繋がっちゃっている。これじゃ、船でインドまでは行けない。いくら、コンパスがあっても、もともと「行けない」と思い込んでるなら、行かないわけだ。

 それでもエンリケは船を出した。なぜだ?

 これには三つの理由がある。アフリカの沿岸調査。早い話、アフリカに攻め込める場所を探してたんだ。この説は、まさにその通りだろう。当時のポルトガルは、長いことレコンキスタ(国土回復運動)を行っていた。イスラムに取られた領地を取り戻す戦争だ。この戦争は、十字軍とは性格が異なるんだけど、イスラム教徒と戦争してることに変わりはなく、海からアフリカを攻撃できれば、かなり都合がいい 。だからこそ、ポルトガルの国家事業として行ったのもうなずける。

 と、これだけでも、アフリカの沿岸を調査するのに十分な動機ではあるんだけど、じつはこの時代でも、アラビア人の中には、アフリカの南側は航海できると信じてる連中がいたんだ。エンリケも、その説を信じていたらしい。アフリカに南端があれば、そこは海のはずで、そこからインド洋に入れる。すると、香辛料ががっぽりあるインドと、直接貿易ができるではないか。これは魅力的だ。あとで詳しく述べるけど、ヨーロッパでは、十字軍がイスラムへの遠征で持ち帰った香辛料が、大流行だったんだよね。

 そして、三つ目の理由。なんとエンリケは、遠き東方にあるといわれた、巨大なキリスト教の国、「プレスター・ジョンの国」を探したかっ� �らしい。これはただのファンタジーなんだけど(しかも悪質な)、エンリケは信じてたみたいだね。気になるだろうから、一応、プレスター・ジョン伝説を説明しておくと、十二世紀ごろ、十字軍がイスラム教徒に負け続けてたもんだから、どこか遠くに、強大なキリスト教の国があって、その国の司祭(兼国王)である、プレスター・ジョンが、ヨーロッパの人たちを助けてくれるというおとぎ話が生まれたんだ。で、一一七〇年ごろ、どっかのイタズラ者が、プレスター・ジョンの手紙を捏造して、ビザンツの皇帝やら、ローマ法王やらに送ったもんだから、さあ大変。けっこう本気で、信じられちゃった。はたして、エンリケが、どこまで信じていたのかは諸説あるけど、もしかしたら、こいつが、一番の動機だったかもね。


グラフのうつ病

 ところがどっこい。エンリケは、アフリカの南端を発見することはなかった。まだコンパスによる遠洋航海は一般的じゃなかったんだ。もしも、エンリケ自身が、優秀な船乗りで、さらに、最新技術を駆使できるだけの頭脳があったなら、話は違っていたかもしれないけど、彼は船に乗れない船酔い王子だからね。集めた船乗りたちは、自分たちがむかしから慣れ親しんだ、近海航法(陸地を見ながら進むってやつだ)から離れることはなかった。だから、アフリカ沿岸の調査にはえらく時間がかかった。

 もちろん、近海航法による、船の座礁が一番の敵だったのはいうまでもない。陸地が見えるのは安心だけど、浅瀬に乗り上げる危険が常にあったんだよ。だから、 何十隻という船が無駄になった。こんなことを繰り返していては、アフリカの南端に到着するのに、何百年かかることやらだ。

 しかもだよ、諸君。水夫たちは南に行きたがらなかったんだ。現代人には笑うしかないようなバカげた理由で。南に行くと暑くなるよね。赤道に近いわけだから。だから水夫たちは、そのうちに、海がぐつぐつと煮え始めて、自分たちが燃えてしまうと恐れたんだ。いや、ちゃんとその証拠はあったんだよ。だって、現地の人たちは、みんな肌が真っ黒く焦げてたんだから! アホか。というわけで、アフリカの南端を探し求める旅は、なかなか進まずに、エンリケは死んじゃった。

 あとを継いだポルトガル王のジョアン二世は、もうちょいマシだった。彼も、自分で船に乗ったわけじゃないけど� �まず、ゴンサルベスという船乗りが、一四七三年に赤道を超えた。そして十五年後の、一四八八年。バルトロメウ・ディアズがついに、南端に近い場所で岬を発見した。じっさいは、航海の帰り道で発見したんだ。というのは、最南端を目指している最中に、すごい嵐に遭って、十三日間も漂流してしまった。船が東に流されてるのはわかっていたから、嵐がやんで北上してみると、そこはアフリカ大陸の東海岸だったんだ。

 ワーォ! やったぜ。最南端を見つけるだけでなく、航路を見つけた!

 だから、ディアズは、本当はもっと航海を続けて、インドまで行ってしまいたかった。ところが、水夫たち(あえて船乗りとは書かない)の、強い抵抗にあった。もうこれ以上、知らない場所に行きたくなかったんだ。水夫って� ��屈強な男たちってイメージがあるけど、意外とロマンチストだから(皮肉で言ってるんだよ)、魔物とか信じちゃってるんだよ。ディアズは、水夫たちのストライキというよりも、殺気だった反乱を止めることができなくて、泣く泣く帰路についた。そんな帰り道で、南西端の岬を発見…… というか確認した(すでに、通りすぎちゃっていたけど、嵐で見えなかったんだよ)。

 だから、彼はここを「嵐の岬」と命名した。のちにジョアン二世が、インド航路の希望はもはや達せられたとして「喜望峰」と改名した。

 この命名の仕方に、じっさいの船乗りと、ただ金を出していただけのオーナーの認識の違いが見て取れるね。そこへ行ったディアズが「嵐」と名付けたのは、大変な嵐に遭いながら、苦労して到達したからだ 。一方、オーナーは、インドに行って、がっぽり儲ける道を発見したわけだから、「希望」と名付けた。おもしろいねえ。

 さてさて、ディアズは、インドまではいけなかったけど、もちろん、ポルトガルに戻ると、英雄として迎えられた。インドへいたる航路を発見したんだから、そりゃ、大歓声で迎えられるさ。ディアズは、航海の様子を宮廷で報告した。この席に、のちに有名にあることになる、ある男がいた。その男の名は…… 以下次号。乞ご期待。

 うそうそ(笑)。ちゃんと書くよ。彼の名は、クリストファー・コロンブス。

 コロンブスは、「コロンブスの卵」でも知られるとおり、天の邪鬼だった。人と同じことをやるんじゃ気が済まない性格だな。なんていうと、コロンブスのファンに怒られそうだか� ��、もうちょいマシなことを書くと、彼は、頭がよかったんだよ。当時、地球は平べったいとだれもが信じていたけど、コロンブスは、地球が丸いと信じていた。だから、南ではなく、西に進めば、インドに行けると考えたんだ。つまり、地球は丸いから、アフリカを、ぐーっと迂回するような、遠回りをしなくても、大西洋を横断しちゃえば手っとり早いと思ったんだ。当然ながら、そこにはアメリカ大陸が鎮座していて、インド洋には抜けられないんだけど、彼がそんなことを知ってるわけがなかった。だって、当時はまだ、衛星写真なんかなかったもんな。

 でもまあ、着想は悪くない。

 コロンブスは、イタリアのジェノバで生まれた。ジェノバは、海運が盛んなところだから、コロンブスも船乗りになった。そして、ポ ルトガルの金持ちの娘さんと結婚したんで、ポルトガルの船団に乗って、アフリカの沿岸航海なんかの経験もあった。と、ここまでは、ふつうなんだけど、じつはコロンブスは、ほかの船乗りと大いに違う点があった。さっきも書いたけど、彼は、頭がよかったんだよ。当時の知識水準からすると、科学者と呼んでも差し支えないぐらいに。

 コロンブスはとくに、地理学を研究していて、マルコ・ポーロの出版した「世界の記述」とかを子細に研究していた。コロンブスの買ったマルコ・ポーロの本が現存してるんだけど、そこにはコロンブスのメモ書きが、びっしり書き込まれているそうだよ。

 そしてなによりコロンブスは、同じイタリア人の、トスカネリという天文学者であり地理学者でもあったオッサンが唱えた、「� �球球体説」を信じていた。じっさいコロンブスは、トスカネリと連絡を取って、西まわりでインドに行けるだろうかと意見を求めた。すると、彼に賛成されたので、自分の考えにいよいよ自信を持った。よし、西まわりでインドに行こう!

 そこでコロンブスは、自分の計画を、ポルトガル王のジョアン二世に売り込むんだけど、軽くあしらわれた。早い話、断られたわけ。この話をはじめてジョアン二世が聞いたのは、まだディアスが喜望峰を発見する前だったけど、ジョアン二世は、当時の一般人と同じく、地球は平べったいと思っていたし、なにより彼は、アフリカまわりに固着していた。エンリケ航海王子からの歴史があるから、当然といえば当然だ。彼が、いかにアフリカまわりに固着していたかを知る手がかりがある。� �ョアン二世は、喜望峰を発見する七年も前から、他国の船団がアフリカ西岸を南下しないように手を打っているんだ。ジョアン二世は一四八一年に、こんな布告をした。

「ギニア海岸に接近した外国船はたちどころに撃沈または捕獲すること。捕らえた船の士官と乗組員は、この方面に棲息するサメ群のなかへ投げ込まれるであろう!」

 おお、怖い。

 こんな調子だから、ディアスが喜望峰を発見してからは、もう、まったくコロンブスの相手なんかしなかった。

 そこでコロンブスは、自分の計画を、ポルトガルに後れをとっていた、イギリス、フランス、スペインなどに売り込んだ。

 まず、イギリスとフランスはダメだった。そんな、成功するかどうか、まったく保証のない(どちらかというと、バカバ� ��しいとさえ思える)計画に、莫大な資金を出す気はなかったんだ。彼らはまだ、それほど、ヨーロッパ以外の土地に、領土を拡大する意欲も強くなかったからね。

 ところが、スペインは、ちょっと事情が違った。かの国は、ポルトガルと同様に、レコンキスタを戦っていて、国土回復はもちろん、領地の拡大に、大きな関心があったんだんだ。それでも、コロンブスの計画には懐疑的だったけど、一四九二年に、そのレコンキスタが、グレナダの陥落で、ついに終わった。これで、コロンブスの航海に援助する余裕ができたんで、ときのスペイン女王イザベラが、当たれば儲け物ぐらいの気持ちで、コロンブスにゴーサインを出した。

 スペインが、コロンブスの「西まわり計画」に金を出した大きな理由として、先行したポ ルトガルとの関係がある。上でも書いたけど、一四八一年に、ポルトガルは、利権を守ろるために、他国を脅すような布告をしている。だからスペインとしては、ポルトガルとは違う航路を見つける必要があったんだ。

 話はわき道にそれるけど、コロンブスの映画があったよね。イザベラ女王役は、エイリアンで有名になった、シガニー・ウィバーだった(コロンブス役は、たしか、鼻の大きなフランス人だったと思うけど、いまいち覚えてない)。あの映画では、イザベラ女王が、コロンブスに恋をして(妻子持ちだぜ、彼は)、彼の計画を支持したという筋書きになっていた。うーむ。一介の船乗りに女王が恋をするなんて、じつに映画的な解釈だけど、ぼくは、そういう話が大好きだったりする(笑)。

 ご参考までに� �イザベラ女王の、肖像画を掲載しておこう。あんまり美人じゃないなあ。(苦笑)。と、思いきや、当時の基準では、とっても美人だったとか。美の基準も移り変わるわけですな。ちなみに、むかしは、ちょっとぽっちゃり目が人気があったらしいね。


1942年ナイアガラの滝官報


 そんなわけで、コロンブスは、やっと自分の計画を実行する機会を得た。旅が成功した暁には、インドで発見した宝の十分の一と、発見した土地の総督と副王の地位。そして、大洋提督の称号なんかを要求した。スペイン貴族にしてもらう約束までした。ところがどっこい、乗員が集まらない。だれも行ったことのない西まわりの航海だから、常識的な水夫は、みんなコロンブスを信じていなかった。当時の常識では、地球は平べったい円盤だと思われていたんだ。だから、途中で、海の端っこに行き着いて、大きな滝から落ちると、水夫たちは恐れて(信じて)いた。

 そこで致し方なくコロンブスは、囚人を、航海の終了時には恩赦を与えるという条件付きで(まあ、生きてたらだけど)船に乗せ、あとは新人でまかなっ� ��。

 こうして、ついに、一四九二年の八月三日。コロンブスは、三隻の船団を組織して、スペインのパロスを出発した。フラッグシップは、かの有名なサンタ・マリア号だ。積載能力一五〇トン、全長二十三メートル、幅七・五メートル。三本マストの当時としてはごく普通の船だった。残りの二隻は、ピンタ号とニーニャ号。こっちは、サンタ・マリア号の、だいたい半分の大きさだった。

 さて。コロンブスが科学者と呼べるほどの知識人だったと書いたけど、覚えているかな。地理学はもちろん、コンパスに関しての知識も第一級だった。

 ここでまた、コンパスの話をしよう。

 じつは、かなりむかしから(中国人は、七〇〇年ごろ)コンパスが真北を示さないことが知られていた。コンパスなしでも、太陽� ��落とす影から(あるいは北極星の位置から)、正確に北を決定できるんだけど、コンパスは、いつも、ちょこっとズレていた。つまり天体観測という手段でえられる「地理学上の真北」と、「磁気的な北」が一致しないんだ。この現象は「偏角」と呼ばれている。いまでは、地磁気がズレているから、そういう現象が起こるとわかっているんだけど、コロンブスの時代には、もちろん謎だった。

 この「偏角」を、はじめて体系的に調べたのが、コロンブスだったんだよ。それは一四九二年の、有名な発見の航海のときに行われた。コロンブスは、アメリカを発見しただけじゃなかったんだ。のちの研究に役立つ、重要な科学的発見もしていたんだ。この話は、あんまり話題にならないね。(ぼくには理由がよくわからないけど、重� ��な科学的発見より、ただの地理的発見のほうが、人々には受けがいいらしい)

 さて。コロンブスは、航海の途中で、磁気的な北の方向が(つまり、コンパスが示す北が)、真北からズレるだけでなく、自分が進むにしたがって、ズレの大きさや方向まで変化することに気づいた。彼は、その変化を注意深く観測したんだけど、それは秘密にしておいた。コロンブスは、水夫たちに西への航海を続けさせるのに、えらい苦労をしていたから(覚えているかい? 水夫というのは、けっして冒険を好まないことを)、このうえ、コンパスが真実を知らせないことを水夫たちが知ったら、ものすごい騒ぎになることはわかりきっていた。なにせ囚人を無理やり働かせてるんだから、コロンブスは海に投げ込まれて、水夫たちは、勝手にう� ��に帰っただろう。もっとも、コロンブスというたしかな腕を持った船乗りがいなきゃ、もう、帰ることさえ不可能な場所まで来ていたんだけど、恐怖に駆られた(駆られていなくても)水夫たちが、その単純な事実に気づいてくれるわけがなかった。ハッキリ言おう。当時の水夫は、ボスを血祭りにあげる程度には勇ましかったが、永遠の迷子になるのを恐れる程度には臆病者で、そのうえ、かなりバカだった。

 そんなコンパスの問題があったけど、星の観測で、真北がわかるし、コンパスが示すズレの大きさもわかるから、コロンブスは、問題なく船を西に向かわせて航海を続けた。

 もう一つ、コロンブスを悩ませた問題があった。壊血病という、ビタミンC が不足することで起こる病気だ。歯ぐきから出血して歯がゆ るみ、関節の痛み、虚脱感が生じ、傷ができやすくなる(もちろん、コロンブスは壊血病の原因を知らなかった。その原因がわかったのは、なんと四二〇年後の、一九一二年のことなんだから!)

 幸い、壊血病がそれほど深刻な問題になるまえに、コロンブスは小さな島を発見した。十月十二日に、現地ではグアナハニと呼ばれる島に上陸したんだ。現在のサン・サルバドル島だね。本当に小さな島だけど、ちゃんと原住民が住んでいた。そこでコロンブスは、彼らと親交を温め…… るわけはなくて、勝手に、スペイン領と宣言して、現地人をとっ捕まえて奴隷にした。コロンブスは、この場所を、マルコ・ポーロのいう、黄金の国ジパングの近くだと確信していたから、黄金のありかを、現地人に吐かせようと苦労をした。現地 人がちょっとだけ金(きん)をもっていたから(砂金を細々と集めて、やっとイヤリングにできる程度)、事態はますます悪化した。正確なことはわからないけど、金(きん)のありかを教えなければ仲間を殺すぞと脅して、じっさい、何人かは殺してみせたかもしれない。もちろん、どんな恐ろしい目にあわされても、現地人が、コロンブスの満足するような黄金のありかを教えることはできなかった。

 それどころか、この場所には、香辛料さえなかったんだ!

 もしも…… コロンブスが、なにかの失敗(幸運?)で、ジパング(日本)に到着してしまって、さらに、当時の日本が、百人か二百人そこそこのスペイン人を追い払う力がなかったら、われわれはどうなっていたろう? たぶん、スペインで奴隷というちっと� �ありがたくない待遇を約束されて、われわれはスペイン語を話していただろう。

 歴史の「if」はともかく。コロンブスは、香辛料がないので、この場所はまだ香辛料の取れる島から遠いのだと考えた。コロンブスほどの頭脳の持ち主でも、ここがインド周辺の島ではないという理論には到達しなかった。とにかく彼は、インドに行きたかったのだ。そして、インドの近くにあるはずのジパングに行きたかったのだ。だから、まったくべつの場所にいるという、彼にとって絶望的な考え方は、いっさいできなかった。盲信と呼ぶべき状況だった。

 そこでコロンブスは、サン・サルバドルを出て、三カ月間も周辺の島々を探索しまくった。

 その探索をはじめた一月後に、ピンタ号が行方不明になった。理由はわかってい ないけど、おそらく、探検に嫌気が差した水夫たちがスペインに帰ろうとしたのだろう。もちろん、コロンブス抜きで帰れるわけはないから、どこかの海で沈んだはずだ。

 二ヶ月後には、サンタ・マリア号がハイチで座礁してしまった。残りはニーニャ号一隻だけ。これだと全員が乗れないので、サンタ・マリア号の材木を利用して砦をつくって、そこに三九名を残して、コロンブスは、つぎの月に帰路についた。

 スペインに戻ったコロンブスは、香辛料も黄金も発見できなかったわりには、破格の大歓迎を受けた。とにかく、「西まわり」の航海は成功したのだ。わざわざアフリカをまわらなくてもインドに行けることを証明した功績は大きい。コロンブスが到達した場所が、インドじゃないとは、コロンブス自身も含め� �、だれもしらないんだから。

 一番喜んだのは、もちろんイザベラ女王だろう。コロンブスが持ち帰ったわずかな金を受け取って大喜び。ついでにコロンブスは、誘拐してきた現地人七人に、賛美歌を歌わせるという余興までやった。帰りの航海の途中、一生懸命覚えさせたんだね。

 なんだか、一発で、コロンブスが嫌いになりそうなエピソードだけど、安心してくれていい。このあとに登場するヴァスコダ・ガマは、もっとひどかった。(もし、その気があるなら、ずっとのちの世の日本軍がアジアの人々になにをやったかと比較してくれてもいい)

 翌年の一四九三年に、コロンブスは第二回目の航海に出発する。今度は十七隻の大船団ですぜ。総勢一五〇〇人。なにせ一回成功してるからね。臆病者の水夫たちも、 大金持ちになる夢を思い描いて、こんどはわれ先にと、コロンブスの航海に参加した。

 で、ハイチの砦に戻ってみると、残していった船員は原住民の襲撃をうけて全滅していた。あたりまえだね。そりゃ、現地人だって怒るよ。

 その後、いくら探しても香辛料は発見できなかった。このときに到着したのはジャマイカだった。インドじゃないんだから、香辛料はない。そんなわけで、期待は一気に不満に変わっちゃった。またもや、なんにも持ち帰らずに帰国。

 つぎの一四九八年には、南アメリカ北部。そして、一五○二年に中部アメリカに到達した。どこもかしこもインドじゃない。アジアですらない。

 結論を書こう。コロンブスは、いま書いたとおり、合計四回の航海をするんだけど、けっきょく、香辛料 も黄金も発見できず、しかも、自分が行ったのはインドだと信じてるせいで、アメリカを発見したんだという(正確には、現地人がいるので発見ではない)名誉も与えられることはなく、地位も名誉も失って、失意の晩年を送った。

 さあ、コロンブスはもういい。こんどは、アフリカまわりを探しているポルトガルに話を戻そう。


タイに住んでいると、私の子供はタイ国籍を持つことができます

 一四九八年。コロンブスが、南アメリカをうろうろしているころ。ヴァスコダ・ガマという船乗りが、ついに、ついに、インドに到着した。このときの航海は十一ヶ月もかかった。約一年だ。ここまで航海が長くなると、壊血病が大きな問題になった。リスボンを出港するときは一七〇人の船員がいたんだけど、帰ってきたのはたったの四十四人。あとの船員は壊血病で死んだ(まあ、事故で死んだのもいるだろうけど)。このときの航海では、ガマの弟も参加していたんだけど、弟も壊血病で死んだ。

 どうも、当時の人々は、「食べ物」のせいで病気になるという概念がなかったらしい。じつは壊血病というのは 船乗り特有の病気ではなくて、十字軍が遠征していた時代から、よく知られた病気だった。野菜や果物のない決まった食事をするときに限って壊血病にかかるのに、どうしても、食べ物が原因だとは考えつかなかったんだ。正確には栄養素が足りないからとは考えられなかったのだ。

 当時から「毒」は知られていた。それが食事に混ぜられれば死んでしまうことも知っていた。つまり、毒を「足された」ときにだけ「食事」で死ぬわけだ。これが壊血病や脚気など、ビタミン不足で起こる病気の解明を遅らせた原因だといわれている。

 そう。壊血病というのは、「足される」のではなくて、「足りなくて」起こる病気だからだ。どうしても、この「逆転の発想」ができなかったようなんだ。その発想ができるまでには、この� �航海時代の初期の時代から、さらに四百年以上待たなければならなかった。

 ここで少しだけ、ビタミンの話をしよう。

 ヨーロッパの船乗りは壊血病に悩まされていたけど、どういうわけか、日本の船乗りは壊血病にかからなかった。日本の水夫は、白米と魚。そして野菜を食べていたから、壊血病の原因である、ビタミンC の不足は起こらなかったんだ。その代わり、日本の船乗りを悩ませたのは脚気だった。この病気は神経を冒し、両手と両足の衰弱と倦怠感が起こって、重傷の場合は死に至る。脚気の原因は、ビタミンB1の不足だ。

 一八八四年。日本海軍の軍医だった高杉兼寛は、脚気の蔓延に頭を悩ませた。なにしろ、日本のどの時期の水夫も、その三分の一が脚気に冒されていたんだ。これで憂慮しない 医者はいない。

 高杉は、ある日、食事が原因ではないかと思った。水夫よりも士官が脚気にかかる確立は格段に低く、水夫と士官の海の上での違いは、食事だと思ったからだ。もちろん士官のほうが、ずっとマシな食事をしていた。さらに、ヨーロッパの水夫が脚気にならないことも知っていたから、その場合の違いも、やはり食事しか思い浮かばなかった。

 そこで高杉は、日本の水夫の食事を、若干、ヨーロッパふうに変えてみようと思った。具体的には、白米に麦をまぜて、いわゆる麦飯にした(←注)。ヨーロッパではパン食が中心だったことから、そうしたのだろう。また、おかずに肉とエバミルクも加えた。この食事で、日本の水夫から脚気が消えた。きれいさっぱり。まるでうそみたいに治った。

(注)
エッセイアップ後、麦飯の表記が欠けていることを、ご指摘いただいて修正しました。
2003/01/18


 というわけで、高杉は日本の水夫から脚気を追放したけれども、なぜ食事を変えたら脚気が発生しなくなったのかのかはわからなかった。もしも高杉が、さらに研究してくれれば、ビタミン発見の名誉は、日本人の科学者の手に握られたのかもしれない。ところが高杉は、食事にタンパク質が増えたからだとしか考えず、しかも脚気が治ったのだから、そこで十分に満足してしまった。

 惜しいなあ。高杉のつぎに食事に関心を持った人物が現れるのは、一八九八年だから、高杉は、十二年も先行していたのに……

 その人物は、クリスチャン・エイクマンというオランダの医者だった。高杉の同業者だぜ。彼は、脚気の原因を調べていて、ちょっとした偶然から(科学の発見ってのは偶然が多い)、脚気 の原因が食事にあり、食事で治すことができて、細菌が原因ではないことを証明した。いっとくけど、高杉と同様に、ビタミンを発見したわけではない。ただ、食事を代えると(正確には、精米する前の米を与えると)、脚気が治ることを見つけたにすぎない。それでも彼は、その功績で、一九二九年に、ノーベル賞をもらった。

 なんとも大脱線してしまった。もうしわけない。大航海時代に話を戻そう。

 どこまで話したっけ? ああ、ヴァスコダ・ガマがインドに到達したところまでだったね。じつはガマは、喜望峰をまわったのちに、アフリカの東海岸の港に立ち寄った。そこにはイスラム商人がいたから、彼らを雇って、道案内をさせたんだ。そしてついに、インドのカリカットに到着した。

 さっそくガマは、� ��リカットの太守に挨拶に行った。するとガマは、とんでもない光景を目にすることになった。宮殿に入って太守に謁見すると、なんと太守は、金や宝石をちりばめた天蓋つきのソファに寝そべって、ビンロウジの実をつまんではタネを金の杯にペッペッと吐いていた。

 どひゃ〜っ、すごい金持ち!

 ガマはビックリしたんだけど、太守のほうは、めんどくさそうな顔で、「なんの用だ?」と聞いてきた。ガマは、ここで半分嘘をついた。自分はポルトガル王の使者で、キリスト教の王国を探しにきたのだと言ったんだ。まだ、プレスター・ジョンの国を探してたんだね、この人は。まあ、ここまでは本当だろう。ところがガマは、このあと、金銭が目的ではないのだと言って、太守を安心させた。ここはまったくの大嘘だ。香 辛料がほしくてほしくて、もう、喉から手が出るどころか、じっさいに出ちゃってるぐらいにほしかったんだから。そのあとガマは、ポルトガル王からの親善のしるしとして、ポルトガルの民芸品や毛皮、毛織物なんかを差し出した。太守は、まったく興味を示さなかった。そんなもの、田舎の商人だってもってくるようなもので、王さまがもってくるようなものじゃなかったのだ。

 ガマは、その屈辱に耐えながら、ちょびっとだけ、貿易をやらせてもらえないかとお願いした。太守は、勝手にしろといってガマを追い出した。

 ガマは、もってきた民芸品や毛皮なんかをカリカットの街で売り払った。雀の涙ぐらいにしかならなかったけど、それで、さらに雀の涙のような量の香辛料を買ってポルトガルに戻った。すると、� �の香辛料は、買いつけた値段の六十倍で売れた。

 ここで、コショウの話をしよう。なんで、ヨーロッパの人たちが、そんなにコショウをほしがったのか?

 その理由は、彼らの食生活にある。当時のヨーロッパ人は、あんまりグルメとはいえないモノを食べていた。もともとヨーロッパはあんまり農業に向いた土地柄じゃない。だから豚や牛をたくさん飼っていた。とくに豚は手頃な大きさで成長も早く、理想的な家畜だった。こいつらは、そのへんに放しとけば、勝手に草を食って成長してくれるんで、太ったころにとっ捕まえて屠殺すればよろしい。そのあと肉は塩漬けにして保存する。この肉がどんなものかは想像にお任せするけど、まあ、自尊心のあるバクテリアが見向きもしないシロモノだったのは間違いないね。< /p>

 いくら塩で保存するといっても、そこはそれ、冷蔵庫のように理想的な保存はできない。やっぱり痛んでくる。でもほかに食料はないから、がまんして食べた。ところが、そんな、ちょっと臭ってきちゃったお肉にコショウを振りかけたら臭みが消えて、おいしいお肉に大変身。

 最高じゃん! と、ヨーロッパの人は思った。たちどころにコショウの虜。

 だから、十字軍で戦ってたころも、もちろん、そのあとも、イタリアの商人がイスラム商人からコショウを買ってたんだ。こいつは、地中海貿易の重要な取引だったんだよ。

 しかし。イスラム商人と香辛料の取引をするのは、大きなジレンマだった。彼らは異教徒であり、憎むべき敵だ。そんな連中から、なんで高価な香辛料を買わなければならないのか。� ��うにかして、直接手に入れる方法はないもんだろうか。

 もちろん、ヨーロッパの人々は香辛料が、アジア(インド)からもたらせることを知っていたから、そこへ直接足を運べばいいじゃんか! と思った。思ったのはいいけど、陸続きでいくには、イスラム教徒の支配地域を通らなきゃいけないから無理。すると残された道は海しかない。

 話が前後したけど、これが大航海の動機だ。そして手段は、何度も言ってるようにコンパスが発明されたことだよ。

 さあ、ガマに話を戻そう。

 おっと、その前に、ポルトガルには、カブラルがいた。ガマに続く二回目の航海を命じられたのは、このカブラルなんだ。フルネームは「Pedro Alvares Cabral」と書くんだけど、なんと読んだらいいのかわかんないんで、適当に読んでちょうだい。


 さて。このカブラルくん。一五〇〇年にポルトガルを出たんだけど、途中、嵐に遭って遭難しちゃう。そこでうかつにも大西洋を横断しちゃった。おいおい、コロンブスが、あんだけ苦労したのと同じことを、ただ遭難しただけでやっちゃうなよ。でもカブラルが漂着した場所はアメリカじゃなくてブラジルだった。彼は漂着ついでに、そこを占領してポルトガル領とした。アメリカ方面は、コロンブスのおかげで、スペインの勢力圏内なんだけど、ブラジルだけは、ポルトガル語をしゃべってるのは、そういうわけだったんだ。

 で、ふたたびガマ。

 やっぱり、この男じゃないとインドには行けないというわけで、ふたたびガマに航海の命令がでた。

 そこでガマは、一� ��〇二年に、ポルトガルを出航した。こんどは、一度目のような屈辱を味わいたくなかったから、インドの金持ちの太守が心のそこから喜ぶようなものを持っていった。

 なんだと思う?

 軍艦だよ。十五隻の船団を率いて、前回バカにした太守を軍事力で屈伏させたんだ。インドに到着すると、沿岸で見つけた船を片っ端から焼いて、乗っている連中を虐殺した。カリカットの街には大砲を撃ち込んだ。そして、住民を船に吊るし、その手足を切り取って、太守に送りつけた。どうだ。前回、バカにした復讐だせ! ざまあみろ!

 いやはや……

 コロンブスもエレガントとはいえなかったけど、ガマはもっとすごい。まさしくヨーロッパの人々の悪魔的側面そのまま。こうしてガマは、香辛料を買い放題。というよ� ��、奪い放題? で、もちろん大儲けして、さらに、インドとヨーロッパの、ゆがんだ関係の幕を開けた。

 こんどはスペインだ。この両国は、まさに競うように(いや、競ってたんだけど)、航海を繰り返す。

 スペインは、イタリアの船乗りの、アメリゴ・ヴェスプッチに、西まわりの航海を命じた。コロンブスが失敗してるんだけど、アフリカまわりはポルトガルに押さえられてるから、なんとか、こっちのルートで、インドを目指さなきゃいけないんだ。

 アメリゴは、コロンブスの航海の記録を調べて(コロンブス以外の航海者の記録も全部調べた)、じつは、このインドの一部か、あるいはアジアだと思っていた場所は、じつは、いままでに知られていない(ヨーロッパ人が知らないだけだが)大陸であると証� �した。だから、アメリゴの名を取って、「アメリカ」と命名した。

 アメリカの原住民のことをインディアンと呼ぶのは大きな間違いだけど(インドだと思っていたから、そう名付けられたんだもんね)、ネイティブ・アメリカンと呼ぶのも、じつは、それほど正確じゃないわけだ。ぼくは、彼らが自分たちの土地をなんと呼んでいたのか知らないけど、「アメリカ」という名前が、そもそも、ヨーロッパの航海者の名前から押しつけられたものだからね。

 いよいよ大航海時代も後半だよ。このポルトガルとスペインの航海競争の間に、イギリスとフランスも、じつは新しいルートを探していた。彼らは、北まわりを探したんだ。もし船ではなくて飛行機なら成功したろうけど、残念ながら北極海の氷に阻まれて、先へは進め� ��かった。

 その間に、ポルトガルは、ちゃくちゃくと、香辛料貿易で大国になっていった。スペインは焦った。なんとか、西まわりで挽回したい!

 そこで、ついにマゼランが登場した。大航海時代の最後の役者だ。

 アメリカがアジアとは全然べつの土地ならば、インドはさらにアメリカの向こう側ということになるわけだ。当時の地理的知識は不十分だから、アメリカ大陸の形がどうなっているかわからないわけで、アメリカ大陸の向こう側に抜ける道を探さなきゃならない。

 それを最初に発見したのは、スペインのバルボアだった。彼はべつに大西洋から太平洋に抜ける海路を探していたわけじゃなくて、探していたのは黄金なんだけど(まったく、どいつもこいつも……)、たまたま、アメリカ大陸で東西� ��一番細くなっている、パナマ地峡を見つけちゃった。ここを横断してみたら、そこは太平洋だった。一五一三年のことだ。でも彼は、そこで引き返した。見たこともない海なんか、これ以上進んで行けるかよと。

 そこでマゼランくんのご登場。

 彼はもともとポルトガルの船乗りだったんだけど、待遇があんまりよくないんで、ライバルのスペインに鞍替えした。当時のスペイン王、カルロス一世(カール五世)は、マゼランに五隻の船と二六五人の水夫を与えて、一五一九年、西まわりの最終的な航路決定を託した。

 マゼランは、一五二〇年。南米大陸の南端とフエゴ諸島との間の海峡を発見した。いまではマゼラン海峡と呼ばれている場所だけど、そこは、東西二つの部分からなっていて、全長約五八○キロメートル 。西部は多数の島の点在していて、しばしば起る強風のために水路としては危険が多い。だから、現在の航海技術をもってしても、このマゼラン海峡を渡ることはめったにない。

 そんな場所だから、マゼラン海峡を通過する以前に、五隻の船団のうち一隻は難破しちゃって、一隻は逃げちゃった(苦笑)。

 さてさて、なんとかマゼラン海峡を抜けてたマゼランは、アメリカ大陸の西側に出た。ここでしばらく北上するんだけど、じつは、太平洋を広い海とは思っていなかった。このまま北に進めば、すぐインドだと思ってた。

 とんだ、間違いだ。地図を見たまえよ、マゼランくん。大西洋なんかより、はるかにでかい海なんだから!

 もちろん、マゼランが地図を持ってるわけもなく、どこまでもどこまでも、海 を進み続けた。さすがのマゼランも、ヤバイと思った。このままじゃ死んじゃうと思った。それでもマゼランは、思い切って進路を西に取ることにした。西まわりの航路を見つけるのが目的だからだ。もう死んでもいいやって気持ちがなきゃ、できないよ、こんなこと。

 その後マゼランは九八日間、いっさい陸を見ることなく航海をすることになった。食糧は当然そこをついた。船の中に巣くっているネズミやアブラムシを捕まえて食べた。アブラムシっていうのは、まあ、ゴキブリですな。ううう。マジ?

 しかもだよ、諸君。そのゴキブリを食べ尽くしたっていうんだから、根性があるじゃないか! いったい、どれだけの水夫が、お腹を壊して死んだだろうか?

 とにかく、ゴキブリもいない、清潔な船になっちゃ� ��たから(いや、実際は不潔極まりなかったと思うけどね)、最後には、船材のおがくず、革、帆、などなど、もはや食べ物ではないものまで食べて飢えをしのいだ。

 そして、一五二一年。とうとう、グアム島を発見した。これは単なる偶然だったんだけど、まったく運がよかったとしたいいようがないね。

 マゼランはその後、さらに西へ向かって、同じ年の四月には現在のフィリピンに到着。マゼランはポルトガル時代にアジアに来たことがあったから、フィリピンの言葉を聞いてアジアに着いたことを確信した。

 やった! インドは近いぜ!

 ところがマゼランは、このあたりを征服して、スペイン領にしたいと考えたらしい。だから、セブ島やマクタン島で原住民と戦っちゃった。このマクタン島で、マゼ� ��ンは殺された。殺したのは、現地の部族の指導者ラプラプ王。

 ご当地では、当然、征服者を撃退したラプラプは英雄だ。いまでも、「マクタン島での戦勝記念祭」で、ラプラプがマゼランを倒す野外劇をやってるそうだよ。

 でも、マゼラン死んじゃったよ。じゃあ、このエッセイも終わりだな。

 いやいや。残された水夫たちのその後を書かねばなるまい。残ったのは一〇八人。指揮はセバスティアン・デル・カーノという人物がとった。指揮する船はヴィクトリア号。こいつが、マゼラン艦隊最後の一隻だ。

 カーノは、さらに西に向かった。そして、ついに十一月。モルッカ諸島に着いた。じつはここは、別名香料諸島と言って、まさに香辛料の原産地なんだ。

 ここで当然香辛料を買いつけて、いよい よ帰還なんだけど、このあたりはポルトガルの勢力圏だ。見つかったら殺される。無事に帰り着けるかどうかは、かなり微妙だ。だから、このまま残りたいという水夫がかなりいた。そいつらを残して、けっきょく四七人で、スペインを目指した。

 カーノは、ポルトガルに見つからないように、思いっきり、進路を南に取ることにした。ほとんどオーストラリアの横を通っていくようなコースだ。でも、この航海は無理があった。沿岸を通らないから、またまた、海をどこまでもどこまでも進むことになって、けっきょく、帰還できたのは一八人だった。

 こうして、マゼランの旅は終わった。彼らは、三年の月日をかけて、マゼラン自身を含む多くの命を失いながら、地球が丸かったことを証明したんだ。なにしろ、ぐるー� �と、世界を一周したんだからね。海の謎は解かれたんだよ。

 こうして、「大航海」と呼ばれる時代は終わった。だから、このエッセイの筆も、ここで置くことにしよう。

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2012年5月12日土曜日

この魚は何ですか? - Yahoo!知恵袋


golipon21さん

こんばんは。

上から

・フグ科の『キタマクラ』です。

・二匹ともアイゴ科の『アイゴ』だと思います。

アイゴはどこで採取されましたか?採取地域によって種が変わる場合が

あるので正確な同定を希望される場合は採取した地域も出来れば記載してくださいね。

2012年5月10日木曜日

●●●インドのスペシャリスト ジャイコラボレーションズ●●●


メディア・文化活動コーディネート


 インド在住13年、現地の事情に精通しヒンディー語もネイティブレベルの日本人コーディネーターと、日本語が話せるだけでなく日本人の感覚と要望をしっかりと理解して対応できるインド人コーディネーターたちがネタ出し、リサーチ、ロケハン、各種許可取得からロケ同行、テープ起こしと翻訳までトータルでサポートいたします。
 農村の子供たちから大臣、大企業の社長や映画スターまでアポ取り、撮影、通訳経験多数。現場ディレクター業務・機材・技術スタッフ・演者などなど手配してのお任せロケも可能です。
 その他、学術調査やワークショップなどのコーディネートも行っております。

先ずはお電話かメールにてご相談ください。


コーディネート・リサーチ実績

世界それホント?会議2011年6月

 前回に続き、同ウェブサイトのリサーチをしました。今回は私自身の結婚の話を軸に、インドの恋愛事情を紹介する内容でした。  >>続きを読む

 原稿を書き、写真を撮る作業で、どちらかというと執筆業務でしたが、最終形態が公開される動画なので、こちらのリストに載せさせていただきました。

NHK BS 地球アゴラ2011年5月〜8月

 「世界の原発事情」「酷暑を楽しむ」「世界の話術」の3回の放送分のリサーチを担当しました。  >>続きを読む

 毎回インドが取り上げられるとは限らないのですが、原発事情ではロケはありませんでしたがインドも登場しました。

NHK BS 地球アゴラ2011年4月

 前月に続き、今月も番組でインドが取り上げられました。テーマは英王室のロイヤル・ウェディング。英王室にも愛飲されている世界最高級の有機栽培の紅茶をつくる茶園を訪ねました。 >>続きを読む

 広大な敷地には2頭のトラ、10頭のヒョウをはじめ多くの野生動物が暮らす茶園。大変魅力的な茶園主さんにお話を伺いました。この番組では、日本から撮影隊は来ないので、当社杉本が現場ディレクターとしてインド人技術クルーたちと共にロケを行いました。

世界それホント?会議2011年3月

 海外の特派員から寄せられた暮らしの情報を元に、本当の国際理解とはどんなことなのか、"世界を読み解くツボ"を紹介するインターネット上の動画サイト。  >>続きを読む

 6月公開用の取材をしました。原稿を書き、写真を撮る作業で、どちらかというと執筆業務でしたが、最終形態が公開される動画なので、こちらのリストに載せさせていただきました。

NHK BS 地球アゴラ2011年3月

 インターネットのウェブカメラを使い、世界各地で暮らす日本人とNHKのスタジオを結び、身近なニュースや現地で関心を呼んでいる話題について、お茶の間感覚の会話を楽しむ番組。  >>続きを読む

 衛生や教育などに関する啓蒙活動を、路上演劇を通して行っている人たちを紹介しました。この番組では、日本から撮影隊は来ないので、当社杉本が現場ディレクターとしてインド人技術クルーたちと共にロケを行いました。

フジテレビ 行って見たらこうだった2011年3月

 BRICSの国々を紹介する特番。ディレクターがインドの家庭にホームステイをして、生のインドの生活を紹介する番組です。当社ではバラナシのリサーチ・取材先手配を担当しました。 >>続きを読む

 写真はホームステイ先の漁師の家庭でとり行われた娘の結婚式の様子。

第二回ウォールアートフェス通訳2011年2月

昨年に続き、ビハール州のブッダガヤにあるニラジャナスクールで、第二回目のウォールアートフェスティバルが行われました。インド・日本から4組のアーティストが、教室の壁など・・・ >>続きを読む

に作品を描きました。インドの現代美術界で世界的に有名なN.S ハリシャ氏は、町と村をつなぐ橋の欄干に子供たちの「夢の村」を描かせるワークショップを行い、スケールの大きな作品がニランジャナ川の上に出現しました。 

BS-TBS ドキュメンタリー 世界の窓2010年11月

 「世界の窓」は世界各地の、様々な建物の「窓」を通して、窓の内側に住む人々や、街などを5分間で紹介する素敵な番組です。同番組の前回のインドロケに続き、今回も当社で・・・ >>続きを読む

コーディネートさせていただきました。今回はジョードプルの青壁の館、ジャイプルの風の宮殿、ラームプルのマハラジャの宮殿、チベット仏教のゴンパの四本立てでした。どれもそれぞれ個性的な素晴らしい窓を紹介することができました。 

ウォールアートフェス通訳2010年2月

仏陀が悟りを開いた地、ビハール州ブッダガヤ。インド最貧地域のひとつでもある。ニランジャナスクールは貧しい子供たちが教育を受けられるようにとの願いをもってNGO・・・ >>続きを読む

2012年5月9日水曜日

オピニオン●心の近代化


 

近代化は西欧で始まった現象である。西欧の近代化は心の近代化に始まった。心の近代化とは、「呪術の追放」つまりアニミズム的・シャーマニズム的な世界観の駆逐を皮切りとして、宗教における合理的態度が形成され、合理主義が思考・行動・制度の全般を支配してきつつあることである。その進展に伴い、生活全般の合理化が進んだ。すなわち、文化的・社会的・政治的・経済的な近代化が全般的に進行してきた。心の近代化は、全般的合理化の開始点であり、また中心点である。この原因と展開を明らかにし、近代化を超克する方向を示すことが、本稿の目的である。その点を確認して、本稿の結びを述べたい。

心の近代化が多くの問題をもたらし、存亡の危機にある人類は、精神文化の興隆を必要としている。ここにおいて待望されるものが、新しい精神的指導原理の出現である。

「近代化革命」つまり近代化の過程は、科学の発達と宗教の後退の歴史だった。「呪術の追放」によって宗教が合理化され、17世紀の科学革命によって西欧に合理主義が進展した。特に18世紀以降、啓蒙主義が人知への過信をもたらした。その結果、西欧人を始めとして、人類は神を見失った。神といっても、聖書の物語の中に描かれている神ではない。真の神とは、宇宙や自然や生命を貫く法則であり、原動力のことである。人間は、こうした意味の神を見失い、神に成り代わったかのように錯覚している。そして、宗教はますます後退し、精神性・霊性は、物質的な享楽の中に埋没しかかっている。西欧を中心に、アメリカやわが国など近代化した国では、世俗化とニヒリズムが進行している。

ところが驚くべきことに、いまや科学の側から逆転が起こっている。科学の先端において、精神性・霊性への関心が高まってきているのだ。科学の時代から精神の時代へ、あるいは物質科学文化の時代から精神科学文化の時代への転換ともいえるような、巨大なパラダイム・シフトが起こりつつあるのである。

20世紀の新しい物理学、量子力学や相対性理論によって、物理学ではパラダイム・シフトが始まっていることを明らかにしたフリッチョフ・カプラは、名著『ターニング・ポイント1984)で、次のように書いている。

2012年5月7日月曜日

BBRの雑記帳: ニュース(2)


そろそろ震災から1年ということで、こう言っては何ですがマスコミにとっても格好の稼ぎ時。なにしろ政府が間抜けなこともあってネタはいくらでもありますし。

そんな中、前から気になっていたのが、こういう碌でもないことを臆面もなく企業として宣言して営業しているイオンという会社。私も近所にあるので利用はしますし、一流通事業者に政府もやってない「科学的に正しい啓蒙活動なんてできない」ことは理解しないでもないですし、それ以外にもまあ何だかんだないわけではないですけれども、それでもこういう事業者が明らかに間違ったことを正当化しているかのように営業に用いているのは根本的におかしいのではないかと。

(以下、青字は記事引用)
東京電力<9501.T>福島第1原子力発電所の事故は、未知とも言える「放射性物質」に対する恐怖とともに、「食の安心・安全」をどのように確保するかという課題を日本の小売業に突きつけた

小売大手のイオン<8267.T>は、放射性物質を限りなくゼロに近付ける「放射能ゼロ宣言」を行い、ホームページや店頭で検査結果を公表するなど、業界 内でも突出した対応をすすめてきた。陣頭指揮を執った近沢靖英執行役・グループ商品改革責任者は「科学的な根拠に消費者心理が加わって、はじめて安心につ ながる」と語り、国の基準を守るだけでは消費者に安心を届けることはできないと指摘する。(中略)

2012年5月6日日曜日

女ばかり南米大陸をゆく


 私は旅が好きだ。枠にはめられた日常生活から、一時的にもせよとび出せば、そこには未知の世界がひろがっている。生地のままの大自然、見知らぬ人びとの生活と文化……。 それが自分の日常生活とかけ離れていればいるほど魅惑的だ。
 そこでは私が王様である。そのかわり、何が起こっても自分の力だけで立ち向かわなければならない。いわば〝背水の陣〟といったいさぎよさが、平和な暮らしになれた私には新鮮な魅力となる。

アドベンチャー旅行

 そんな、生活のアカを洗い流す精神衛生的必要性と、そして何よりも、未知のものへのあくなき好奇心が、私をアドベンチャー旅行へとかり立てるのだ。
 旅行には、たいてい車を使う。車の旅は上すべりになるからときらう人もいるけれど、この文明の利器を利用しない手はない。行動範囲が抜群にひろがる。道のあるところなら(たまにはないところでも)どこでも、時間にとらわれず行動できる。危険防止にもいい。窓をしめてロックすれば、ある程度安心できるし、いざという時には一目散に逃げだせる。行き暮れたらそのまま野宿することもOKだ。荷物もたくさん積める。とくに私の場合は膨大なフィルムや撮影器材がついてまわるから、車は欠かせない旅の伴侶となる。

南米大陸へ

 5年前、アジアハイウェイ(アジア大陸横断道路)2万キロの旅から帰ったとき、私の心には、つぎなるプランが芽ばえていた。
「こんどはどこへゆこう」
 アジアハイウェイにも同行した親友の田村さんと、折りにふれては話し合った。まだ1度も行ったことがないところという点で、アフリカと南米が候補にあがったが、知りつくされた感じのアフリカよりも、明るい未来が開けつつある南米大陸へと傾いていった。
 いつからか、私たちは南米に関する本や地図などを買い込み、新聞記事を切り抜いて資料集めなどするようになっていた。そして2年前、田村さんがエリック・シプトン氏のパタゴニア(アルゼンチン南部)探検記『嵐の大地』を翻訳出版してから、夢は急速にふくらんでいった。

2012年5月4日金曜日

<三月平和問題ゼミナール>


<三月平和問題ゼミナール>

〜カナダの多文化主義の現状に関する考察〜  

 

法文学科経済情報学科四年 岡田綾子

(多文化主義とは)

多くの民族や人種が共存するためにはなくてはならない主義であり、世界がグローバル化する現在、更に広がりつつある。多文化主義を取り入れている国として、アメリカ、オーストラリア、カナダが知られているが、アメリカ=奴隷制度、オーストラリア=白豪主義、カナダ=英vs仏の争い、がそれぞれ多文化主義展開への発端となっている。ここでは、カナダにおける多文化主義に焦点を当てる。

 

【1】カナダへの移民傾向

グラフ参照

【2】中国系移民の考察

○ カナダ移住のきっかけとなったゴールドラッシュ 〜一獲千金の夢〜

 

1958年、カナダ西海岸のバンクーバー近くのフレーザー川流域における金鉱の発見。ゴールドラッシュ収束後、カナダ太平洋鉄道の建設が始まるが、建設労働者の四割は華人であった。

しかし、1886年、カナダ太平洋鉄道がついに完成すると、華人は職を失うとともに、白人労働者からは、「賃金を低下させ、白人の仕事を奪う邪魔者」として迫害を受けることになった。

→華人排斥運動へ

*チャイナタウンの役割

○ 華僑と華人

「華僑」と「華人」の違いは何か。つい、一緒にしてしまいがちだが、この言葉には微妙な違いがある。この「華僑」と「華人」を厳格に区別して使用することは非常に困難であるのだが、その微妙な違いをここで説明したい。

 

○ 華人の一般的特徴

―「金持ち、忍耐強い、商売上手、賢い、働き者、一族の絆が強い、世界中にいる。」― 私の華人に対するイメージはこのようなものである。おそらく、多くの日本人のイメージもそうではないだろうか。

そこで、実際の華人とはどのような人々であるのか、下に示す「四字熟語」、「伝統的特色」、の意味を考えつつ、その一般的特徴を分析してみる。ただし、今日、海外華人の活動では欧米化がかなり進んでいるため、下に述べたような華人社会の伝統的な側面を認識しておくと同時に、今日の華人意識が大きく変容しつつあることにも十分注意を払う必要がある。それをふまえた上で述べてみたい。

<華人の生き方を表す四字熟語>

T.「白手起家」・・・裸一貫から身を起こし、一家の財をなす。素手で家を起こす。かつては清貧だった華人が、その後、刻苦奮闘して大富豪となったという著名な華人豪商の出世物語が華人社会ではよく聞かれる。

U.「落地生根」・・・地に落ちて根を生やす。土地に根を張るという意味から、華人がいつまでも祖国中国のことばかり考えずに、居住地に定着すること。かつて周恩来首相は、海外華人が中国と居住国との友好の架け橋となるよう訴えた。

V.「衣錦帰郷」・・・故郷に錦を飾る(錦を着て故郷に帰る)。海外在住の華人が、道路、病院、学校などを建設したり、献金したりして、故郷や祖国中国の発展に貢献する。居住国出生の新世代の華人の「故郷」への意識は希薄化しており、愛郷心に基づいて「故郷」へ投資するというより、投資先はビジネス優先で決定するようになってきている。

2012年5月2日水曜日

戦争犯罪 - Wikipedia


戦争犯罪(せんそうはんざい)とは、1945年に国際軍事裁判所条例で定められた犯罪概念で、戦時国際法に違反する行為(交戦法規違反)と戦時反逆罪(作戦地・占領地内における非交戦者による利敵行為)を意味する。広義には同条例で規定された平和に対する罪・人道に対する罪を含めた概念を意味する。

具体的には、他国に対して侵略戦争を仕掛けたり、敵兵・捕虜に対して非人道的な扱いをすることなどである。また、民間人に対しての殺戮・追放・暴行など、紛争や混乱の誘発や報復感情の拡大の原因となる行為と言動も、戦争犯罪であるとされている。

かつて戦争犯罪と定義されていたのは、捕虜の虐待を禁じた「ジュネーブ条約」や、非人道的兵器の使用を禁じた「ハーグ陸戦条約」など、戦時において守られなければならないとされる国際法(戦時国際法)違反行為のみであった。

[編集] 第一次世界大戦後の戦争犯罪概念

第一次世界大戦終結後、戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された。戦勝国であるアメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリア・日本等の連合国10ヶ国は、パリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において「戦争開始者責任および刑罰執行委員会」(The Commission on the Responsibility of the Authors of the War and on the Enforcement of Penalties)を設立した。この委員会は国家元首をも含む戦争開始者の訴追や、対象が複数国にまたがる残虐行為戦犯を裁くための裁判所を設置するなどの報告書を提出した。この報告書は講和会議では採用されなかったが、ヴェルサイユ条約第227条である「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」としてドイツ皇帝ウィルヘルム2世を特別裁判所に訴追するという条項となって反映されている[1]。この訴追は中立国であるオランダが亡命していたウィルヘルム2世の引き渡しを拒んだため裁判は行われなかった[2]

またパリ講和会議では「戦争に関する責任を調査する十五人委員会」(en:Commission of Responsibilities)が戦争犯罪の概念として「戦争の法規及び慣例違反」というリストを作成し、残虐行為を行ったとする戦犯45人をリストアップした。この戦犯はヴェルサイユ条約によってドイツ政府自身で裁くことが定められ、1921年からライプツィヒで裁判が開始された。しかしこのライプツィヒ裁判(en:Leipzig War Crimes Trial)は、幾人かに短期間の懲役刑が下されたのみであり、大半は無罪となった。また政治・軍事指導者に対する訴追は行われなかった。

1920年には国際連盟の常設国際司法裁判所設立のための法律家諮問委員会は「国際公共秩序を侵害し、あるいは諸国の普遍的法に反する犯罪」を裁く国際高等裁判所設置を提案した。同様の提案は1922年、1924年、1926年にも行われているがいずれも成立しなかった[1]

[編集] 第二次世界大戦前期の戦争犯罪訴追の動き

第二次世界大戦の最中、連合国側はドイツ軍の残虐行為を幾度も非難し、戦争終結後には責任者の処罰を求める事を強く警告していた。しかし、この時点ではホロコーストなどの自国国民への犯罪行為は戦争犯罪とみなされていなかった。

1940年11月、ポーランドとチェコスロバキアの両亡命政府は、故国で行われているドイツの残虐行為を非難する声明を行った。1941年10月25日、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相はそれぞれドイツ軍が各地で行っている残虐行為を批判する声明を発し、特にチャーチルはこの犯罪行為への懲罰が主な戦争目的のひとつに数えられるべきであるとした[3]。また11月25日にソビエト連邦のモロトフ外相もドイツの残虐行為を非難する声明を行っている。

1942年1月13日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿においてベルギー、チェコスロヴァキア、フランス、ギリシャ、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラビアの連合国9ヶ国の亡命政府が会議を開き、ドイツの民間人への残虐行為を非難し、かつ裁判によってこれらの犯罪の命令者や実行者の処罰を決議するセント・ジェームズ宮殿の宣言が出された[4]。戦争における残虐行為を裁判で処罰することを定めた最初の公式宣言となった。オブザーバーとして参加していた中華民国もこれに同意し、日本にも適用するよう申し出た。この宣言には後にソ連も同意する。セント・ジェームズ宮殿の宣言に合意した各国は英米に合意と実行を迫ったが、英米はライプツィヒ裁判の失敗による消極姿勢と[5]、委員会にソ連構成共和国を加えようとするソ連の主張のため、委員会設置は遅れた[6]。しかし亡命政府の要求と、東アジアの植民地で日本軍の攻撃を受けたイギリスやアメリカ、オランダなどの要求により、戦犯裁判へと動き始めた[7]

2012年5月1日火曜日

マスコミに載らない海外記事: 読書


Richard Mynick

2010年6月12日

大衆的語彙の中に初めて登場して以来、"オーウェル的"という言葉は、典型的な"全体主義国家"の姿を呼び起こす。秘密警察だらけの一党独裁、自国民をスパイし、異議を唱える連中を弾圧し、恣意的逮捕や、囚人の拷問を行い、永久戦争を遂行し、ご都合主義のために歴史を書き換え、自国の労働人口を貧困化させ、ダブルシンク(二重思考、つまり"二つの相反する信念を、同時に心の中に保持し、両方の信念を受け入れる力と、定義される思考体系)に根ざす政治論議。

多くのアメリカ人は、この"オセアニア"描写が、20世紀中期の最も影響力がある不滅の英語小説の一冊、ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』にある未来の暗黒郷であることは容易にわかるだろう。

多数のアメリカ人が、この描写が自らの社会そのものにもあてはまると思うかどうかは、また別の話だ。しかし2000年の大統領選挙の不正以来、出来事 9/11攻撃、架空の"WMD"(大量破壊兵器)に基づくイラク侵略、拷問スキャンダルや、2008年の金融危機等が起きた時期として、この事は益々多くのアメリカ人が理解しつつあるものと思える。

1984年』は冷戦の緊張が高まる最中、1949年6月に刊行された。大半の西欧の読者にとって、当時の反共というプリズムを通して、本書はたやすく理解ができた。

小説の警察国家は、スターリンのソビエト社会主義共和国連邦と、疑うべくもないほど類似している。スターリン主義に激しい敵意を持っていた、自ら認める民主社会主義者、オーウェルが書いたものゆえ、それも驚くべきことではない。しかし、オーウェルはスターリン主義と社会主義を一緒くたにするには、余りに明敏で(例えば、"私の最新の小説 ['1984年']は社会主義に対する攻撃を意図したものではなく…共産主義やファシズムにおいて既に一部実現されている…逸脱を表現するものです...。"と書いている[1])、冷戦時代に彼の小説を読んだ人々は、得てしてこの違いを理解しなかった。彼の注意書き("英語国民が、他のどの国民より、生まれつき優れているわけではなく、そして全体主義が…どこにおいても勝利しうる"ことを強調するために、本書の舞台がイギリスに置かれた…)はほとんど見過ごされ、世上、小説のゾッとする予言("もしも将来の姿を見たければ、永遠に人間の顔を踏みつけるブーツを想像すればよい")は、主に西欧風資本主義"デモクラシー"の敵と見なされている政治制度の特性だとされている。(2)

しかし『1984年』は、決して西欧を裏書きするものではない。国営マインド・コントロールを論理的極限まで利用して、自分たちの権益のために、支配し、権力を維持する、責任を負うことの無いエリート層を仮定しているのにすぎない。経済組織という名目的構造にはこだわらずに、国民を搾取的支配に強制的に服従させる上で、運営上、一体何が関与しているのかを、本書は検証しているのだ。いささか違う言い方をすれば、この小説は、支配的官僚制度なり、金融資本なりのいずれから発生するものであれ、責任を負うことのない国家権力一般についての、心理-社会的機構を検討しているのだ。小説は、極めて不平等な社会において、社会的安定性を維持するための、抑圧と国民意識の支配という、ある種の組み合わせによ� �てのみ実現可能となる、基本的な問題を探っている。

粗野な専制政治は主として弾圧を用いる。洗練された専制政治は、意識を支配する、より巧妙な手段を見いだすのだ。逆に意識は、社会における言語の公的な使用方法と深くからんでいる。オセアニアもアメリカも、国民の意識を巧妙に形成する国家なのだ。それこそが、なぜ二つの社会が、益々核となる特徴を共有しており、既に言語、意識、順応や、権力との間のつながりに対する鋭い洞察を認められている『1984年』が、冷戦当時より、2010年、一層読者にあてはまるのは確実だという理由だ。

1984年のオセアニアにおけるマインド・コントロール

オーウェルの架空のオセアニアでは、心理社会的な機構は、大まかに言ってこんな風に機能している。全ての権力はに掌握されている。永久戦争は国家政策の原動力だ。マスコミは、国家プロパガンダの単なる道具に過ぎない。国民は、思考警察が実施する絶えざる監視と、思考の幅を狭め(言語そのものが、異端思想を形成するのに必要な構成概念に欠けている為)思考犯罪(異端の思想)を原理的に不可能にするのが狙いである新言語、ニュースピーク(新語法)の発展のおかげで牽制されている。

囚人の公開処刑や二分間憎悪等の国家が提供する儀式は、残虐な国粋主義や好戦的愛国主義への熱中を生み出す為のものだ。国民の85パーセントを占める"プロール"は、彼等が政治意識を発達させるのを防ぐために(主として、スポーツ、犯罪、宝くじや、セックスに注力した映画という)頭を麻痺させるようなマスコミの気晴らしで一杯にされてしまっている。プロールは"今ある姿とは違う世界がありうるはずだということを理解する想像力を持てない"ままにされている。

一方で、党員達国民の2パーセント以下である党中枢"インナー・パーティー"と、より権限の少ない党外郭"アウター・パーティー"のいずれも)は、思想犯罪を行うことを避けるために、ダブルシンク(二重思考)の技術を習得しなければならない。党員は"外国の敵や、自国内の裏切り者に対する憎悪、勝利に対する歓喜、党の権力と叡知を前にした自己卑下といった具合に、常に熱狂して暮らすことを期待されている"自分の思考を自主規制するのが下手で、正統思想に対する潜在的脅威となりかねないような人々は、国民の中から体系的に間引かれてしまう。反抗分子は、人間性を破壊するよう科学的に設計されたやり方によって拷問されるのだ。

2010年のアメリカ合州国で、それがいかに機能しているか

上記特徴の全ては、2010年のアメリカ社会に、すぐそれとわかる形で存在している。あるものは本格的な形で。またあるものは、より原初的な形で(また現在も進化中だ) 。今日の類似しているものの多くを網羅的に列記すれば、丸ごと一冊の本ができてしまうだろう。そうした本には、オセアニアの皮肉に名付けられた"平和省"アメリカ"国防省"よりも、オーウェル風婉曲表現はないという些細な事実の一致までも含まれるだろう。

そうした本は、より重要な類似、つまり"異端の思想"を発展させるのに必要な概念や物の見方(つまり既成政治経済制度に対する合理的な批判)を体系的に国民から奪い取るために、アメリカのマスコミ等が、一種のニュースピーク(新語法)として機能している、様々なやり方を載せることになるだろう。その本には、本質的に世界金融危機の負担は、この危機の犠牲者によって支払われるべきであり、危機の犯人達は損失に対し免責されるべきだという、ウオール街救済措置の根本にある論理も載るだろう。しかもこの政策は、彼等が"民主的に選び出した"政府によって犠牲者に押しつけるべきなのだ(つまり、ほとんど全国民に) ということも。(マルクス: "抑圧されている人々は、数年に一度、彼等を抑圧している階級の、どの代理が自分たちの代表となり、自分たちを抑圧するかを選ぶことが許されている。")

以下は、オーウェルの洞察が未来の空想と見なされて以来、数十年のうちに、そして西欧の限定された資本主義"民主主義"の姿がオセアニア風専制政治に対する防波堤と見なされて以来、一体我々はどこまで来てしまったのかを示してくれる、いくつかの類似点の概要だ。

労働者階級が、ファシスト・ドイツやイタリアの場合のように、歴史的敗北を被ったか、あるいはソ連のように、反革命的な官僚制度によって、権力を奪われてしまった状態を、オーウェルが想定していたことは留意しておく必要がある。現代アメリカにおいて、物事に対する公式見解は、その多くは混乱した異議だとは言え、益々異議を唱えられ、認められにくくなりつつある。確かに、アメリカ支配者の、権威主義的な狙いと、野望に関する限り、オーウェルの概念を書き換える必要は皆無だ。