[第5回] ホロコーストの傷跡
被害者意識が募り、客観的状況が見えなくなる
イスラエル軍が昨年12月末から3週間にわたってガザに空爆や侵攻を繰り返し、多くの民間人が犠牲になって、国際的な非難があがった時、イスラエルではユダヤ系国民の9割以上が戦争を支持した。さらに、その後行われた総選挙では、ガザ攻撃を行ったカディマ・労働党政権ではなく、右派勢力が国会の多数をとった。まるで、カディマ・労働党政権のやり方には物足りないというかのようである。このようなイスラエル国民の意識を、どのように理解したらいいのか。イスラエルで政治心理学を専攻するテルアビブ大学のダニエル・バアタル教授に話を聞いた。
バアタル教授は、「イスラエル国民の間には、和平に対する悲観的な見方が広がっていて、それが強硬派の右派指導者への支持につながっている」と語る。
なぜ、イスラエルで和平派が国民の支持を失ってしまったのか。同教授は、まず、イスラエル政治での「和平派」の始まりについてこう語った。
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- 2月にあったイスラエルの総選挙の投票風景=ヨルダン川西岸の入植地アリエルの投票所で
「イスラエルでは1948年の独立以来、50年代、60年代、70年代と、アラブと和平を結ぶという考え方がなかった。イスラエルで初めてアラブとの和平という考え方が出てきたのは、77年にエジプトのサダト大統領のエルサレム訪問の後だ。平和運動のピースナウが生まれたのも、それがきっかけだった。その後、イスラエルの和平派は次第に強くなり、特に82年のレバノン侵攻の後、国民の間に広がった。それは初めて正当化できない戦争だったからだ。それまでの戦争は、自分たちが選んだものではなく、避けられない戦争だったが、それ(レバノン侵攻)はわれわれが選んだ戦争だった。80年代にイスラエルは、和平を求める中道左派と、和平に消極的な中道右派に二極化して、選挙ではその2勢力が戦うことになった。80年代、90年代の� ��スラエルでの選挙は、いつも中道左派の労働党と中道右派のリクードが拮抗していた」
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92年の総選挙で労働党が僅差でリクードを破って、ラビン政権ができた。93年にラビン政権はアラファト議長が率いるパレスチナ解放機構(PLO)とオスロ合意を結ぶが、国民の間では、賛成反対は伯仲していた。ラビン首相は95年に極右の青年に暗殺され、96年の選挙ではリクードのネタニヤフ政権ができ、その後、99年にラビン首相が残した和平を引き継ぐという主張を掲げて、労働党のバラク政権が生まれた。
バアタル教授は、和平派に決定的な打撃を与えたのは、当時のバラク首相だったという。
「バラクが1999年に労働党から首相になり、2000年7月にクリントン米大統領の仲介で、アラファト議長とキャンプデービッドで首脳会談を行ったが、失敗した。バラクは『私は最大限の譲歩をしたが、アラファトはそれを拒絶した。アラファトは和平を望んでいない。それが彼の真実の顔だ』と非難した。リクードは『パレスチナ人との合意など信用できない』と言い続け、労働党は『和平をむすぶことが、イスラエルにとっての希望だ』と言ってきた。その和平推進派のバラクが『和平は不可能』と言ったから、国民はそれを信じた。さらに2カ月後の2000年9月にパレスチナ人のインティファーダ(民衆蜂起)が始まった。それに対して、バラクはアラファトを非難して、『アラファトは政治的な目標を達成するためにテロの手法を使って� �る』と主張した。当時、イスラエルの情報機関モサドや国内治安機関シンベト、さらに軍情報部はいずれも、インティファーダはアラファトが計画的に起こしたのではなく、偶発的に起こったと分析した。なのに、和平交渉を進めるはずの労働党の指導者であるバラクが言ったことを人々は信じ、国民は和平支持の側から、反和平の方に移った。それがイスラエルの和平陣営にとっては、決定的な打撃となった」
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イスラエルでは和平への悲観的な空気が広がった。そのような時に、国民が求めたのはアリエル・シャロンのような強い指導者だった。シャロンはタカ派の指導者であり、ヨルダン川西岸に大規模に侵攻するなど状況をさらに悪化させ、パレスチナとの和平の可能性はますますなくなった。ただし、バアタル教授は、イスラエル国民が「和平」の考えを放棄したわけではない、という。
「イスラエルではいまでもパレスチナが独立してイスラエルとパレスチナが2つの国として共存するという2国家解決案が国民の間で支持を得ている。しかし、実際には、ガザを支配しているハマスは和平のパートナーではないし、西岸を抑えるファタハを率いるアッバス議長は、『弱い指導者で和平を実現できない』と見ており、結果的に『いまのところパレスチナ側に和平のパートナーはいない』という意見がイスラエル国民に広がっている。パレスチナとの和平がないとすれば、紛争と戦いの中で生きるしかないわけで、先のイスラエル選挙で右派がのびたのも、国民のなかにある、そのような空気を現している」
さらに、イランの核開発がイスラエル国民に与えている不安感も、イスラエルの世論が右傾化する理由になってい� �、という。
- エルサレムのベッドタウンとなっているヨルダン川西岸の入植地マーレアドミム
「いまイスラエル国民にとって、核開発を続けるイランは最大の脅威であって、イランの核施設を破壊しない限り、いつかイランがイスラエルに核攻撃をしかけてくると思っている。戦争や紛争の空気が強まる中で、強硬な指導者が選ばれることになる。イスラエル国民は、外から攻撃されることに強い被害者意識を持っており、ガザ攻撃でも、政府は、ガザのハマスがロケットを放ち、イスラエルの市民が被害者になっていると宣伝した。『どんな国だって、自分の国にロケット弾が飛んでくるのに黙ってはいない』とオルメルト(首相)はいった。実際には、ガザはイスラエル軍が撤退した後、厳しい封鎖に置かれて、人々は苦境に陥っていたが、イスラエル人には『向こう側の悲劇』は目に入らなかったし、見ようともしなか� �た。イスラエル政府は自分たちが被害者だということを理由として、ガザに激しい攻撃を加えた。その攻撃を、イスラエルのユダヤ系国民の9割以上が支持した。82年のイスラエルのレバノン侵攻の時の国民の支持は70%だった。自分たちが被害者だと考え、その報復に対するものとして攻撃を正当化した時、国民の支持は圧倒的だった」
バアタル教授は、外からの攻撃に対して、過剰に反応するイスラエル国民の心理について、「旧ナチによるホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺大量虐殺)以来、ユダヤ人の中に深く刻み込まれ、集団的な被害者意識が我々の国民意識の一部となっている」と分析した。
「イスラエルではホロコーストの経験は、様々な機会に呼び起こされ、国民意識の一部となっている。毎年、3万人の青少年がイスラエルから旧ドイツのナチの強制収容所を訪れる。さらに、日常的に様々な機会に『2度とホロコーストが起こることを許してはならない』と繰り返される。最近の新聞に、イランのアフマディネジャド(大統領)を『ヒトラー』となぞらえる文章が出ていた。ハマスは頻繁に旧ドイツのナチになぞらえられ、ユダヤ人を抹殺しようとする悪の勢力として描かれる。ホロコーストは決して過去の出来事ではなく、将来、起こるかもしれないことで、それを2度と起こらせないために、現在、あらゆる手段をとるというのが、イスラエルにとっては最も重要なことになる。我々は、なお、ホロコーストの恐怖にと� �われて暮らしている。それがイスラエル国民の精神状況だ」
500万人以上のユダヤ人がナチの強制収容所で虐殺された歴史は痛ましいことだが、イスラエルが独立してすでに60年をすぎた。いまでは、イスラエルは中東で圧倒的な軍事力を持ち、核兵器を所持していることさえ公然の秘密となっている。経済力も欧米並だ。軍事的、政治的に米国の同盟国でもある。イスラエルの国力は、昔とは全くことなるのに、なぜ、過剰に反応するのか。
「問題なのは、軍事的な強さと、心理的な不安が、関係なく存在していることだ。まるで幼いころの虐待された子どもが、虐待の記憶や不安を抱えたまま、大人の強い体を持ったような状態で、精神的な傷がそのまま残っている。イスラエルは自分たちの精神的な傷を乗り越えて、現実をより客観的にみなければならない、と私も思う。しかし、実際には、それにほど遠い状況だ。自分の被害者意識だけで、ハマスやイランをナチにたとえて、ますます不安を強める方向に向いている。いま、イスラエル人は近い将来に、和平の希望を持てないから、逆に戦いに備えて、ネタニヤフやリーバーマンなどの強硬な指導者を求めている。パレスチナやアラブ諸国との和平を唱える人々もイスラエルにはいるが、それはごく少数だ。イスラエル� �具体的に和平を選択するようになるには、さらに時間がかかるのではないかと私も悲観的にならざるをえない」
(編集委員・川上泰徳)
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