メキシコ年表 その1
(フロリダを含む)
1999.9 この年表は1876年,ディアスがレフォルマ政権を打倒するまでの事項をあつかっています.それ以後1928年の国民革命党結成まではメキシコ年表 その2を,さらにそれ以後現在までについてはメキシコ年表 その3をご参照ください.
フロリダ関連事項は茶色で表記しています.いずれどうしたらよいか考えます.(2003年2月)
アステカ征服 副王制開始 1600 1700 メキシコ独立戦争 サンタアナの時代 米墨戦争 レフォルマの時代
メキシコ先史
文献ごとに,年代に相当の開きがあります.「先史」なればこそでしょう.アバウトで考えておいてください.
BC 30,000 ベーリング海峡を渡り,アジア系民族がアメリカ大陸に進出.
BC 20,000 メソアメリカでの先住民の活動が開始される.
BC 12,000 ニューメキシコ~コロラド州に新大陸最古のクローヴィス文化.大型獣の狩猟を生活の基本とする.
BC 3,000 メソアメリカでトウモロコシの栽培が普及.
BC 1,700 マヤ地域の太平洋岸に,パラ=オコス式土器を用いる文化が発生.刻線文,刺突文,縄文などを特徴とする.コロンビア~エクアドルの文化が伝承したものといわれる.
BC 1,000 メキシコの大西洋側ベラクルス南方一帯にオルメカ文化が発生.
BC 500 グアテマラ・シティー近くのカミナルフユを中心とするグアテマラ南部に新たな文化が発生.200以上の神殿遺構を持つ大規模な都市遺跡.
B.C500 メキシコ南部オアハカ渓谷モンテ・アルバンにサポテカ文明が起こる.
B.C400 オルメカ文明,衰退期にはいる.
B.C400 マヤのエル・ミラドール,ナクベ,カラクムルなどに先古典期文明が起こる.
BC 200 このころからテオティワカン文明が興隆.メキシコ中部における古典時代の開始.神殿群の建設が始まる.街はピラミッドをふくむ格子形の構造で,平屋のアパートが立ち並ぶ.最盛期の人口は45万に達する.
200bc マヤの古典期前期文明。ペテン低地にティカルなどの祭祀センターが建設される。
AD100-1500 南アリゾナのGila,ソルト・リバー谷に,穴居と灌漑設備を特徴とするHohokam文化.フェニックス近郊のスネークタウンが有名.
AD 200 ティオティワカン王国が,カミナルフユをふくむグアテマラ南部を制圧.グアテマラ高地にテオティワカンの影響を受けたマヤ古典期文明が栄える.この後数百年にわたり全盛期を迎える.
A.D534 マヤ文明,古典期前期を終え,60年間にわたる空白の時代に入る.
AD 600 マヤの古期後期文明が始まる。メキシコの支配を逃れたマヤ族は,ユカタン低地に進出.Palenquel,Yaxchilan,Uxmal,コパン,ワシャクトンなど低地の総人口は三百万,中心都市ティカルは五万人に達する.征服前に唯一完全な文字文明を持つ.
AD700 ティオティワカン文明,北方民族の攻撃を受け滅亡.その後しばらくメソアメリカは混乱.マヤ低地では各都市が覇権を争う.メキシコ湾岸ではエル・タヒン文明が最盛期を迎える.
AD 800 オアハカ渓谷のサポテカ文明,衰退期にはいる.これに代わりミシュテカ人が主導権を握る.
AD950 現メキシコシティーの北西トゥーラに,北方民族のトルテカ人による文明が発祥.トルテカはユカタン半島を制圧し,チチェンイッツァー,ウシュマルなどの神殿都市を建設.
1100 トルテカ文明は衰退期にはいる.中部高原ではチチメカ人と呼ばれる北方のナワ語族の進出が相次ぐ.
1150 チチメカ族が中央高原を制圧.さらにパナマまで進出する.
1194 チチェン・イツァ山地を拠点とするマヤパンが,チチメカと結んでトルテカ王国を降し,ユカタン半島を制圧.第三次のマヤ文化が始まる.
1200 チチメカ族の一派アステカがメキシコ盆地に入る.守護神メシの名をとり国名をメシカ(Mecica)と称する.
1325 アステカ族,テスココ湖に浮かぶ島テノチティトラン(Tenochtitlan)に定着.その後テスココ族,トラコパン族と同盟し,武力で周辺諸国を制圧.
1428 アステカ人,メキシコ盆地を平定.その後,中米一帯に版図を広げる.
1440-1487 アステカ帝国,モクテスマ一世の下で最盛期を迎える.
1441 ウシ族とチェチェン族の連合軍,マヤパン王国を滅亡に追いこむ.南部高原ではキチェやカクチケルなどの多数の王国が成立.
1502 モクテスマ二世がアステカ皇帝に即位.
アステカ征服
1500
11年 ダリエンからサント・ドミンゴへ向け航行中のスペイン船(船長はエルナンデス・デ・コルドバ・バルディビア),ジャマイカ沖で座礁.11人がユカタン半島のコスメル島に漂着.乗組員の多くは生け贄となるが,ヘロニモ・デ・アギラールとゴンサーロ・ゲレロは生き残る.ゲレロはマヤ人に戦いぶりを評価されて首長となり,マヤ人の妻とのあいだに三人の子をもうける..
1513年
3.27 プエルトリコ総督ポンセ・デ・レオン,「永遠の青春の泉」のあるビミニ島を目指し,第1回目のフロリダ探検.半島東岸に到着.
4.02 ポンセ・デ・レオン,サ・アウグスティンに上陸.復活祭(パスクヮ・デ・フロリダ)の日に上陸したことからこの地をフロリダと名付ける.南下しサーブル岬を回ったところで中断.(以下フロリダからカリフォルニアにいたる米国南部地方の年表はメキシコ年表に一括)
15年 キューバで先住民が次々死亡.労働力不足に悩まされるスペイン人は,ホンジュラス沖のバイア諸島で奴隷狩りを開始する.
1517年
2 フランシスコ・エルナンデズ・デ・コルドバ、キューバ在住のスペイン人120人を組織し、三隻からなる奴隷狩の艦隊を編成。キューバ西端を出発し,バイーア諸島に向かう.
2月 コルドバの艦隊、航海途中に嵐にあい,ユカタン半島北東部のカトーチェ岬に漂着.マヤの神殿都市を発見し「新カイロ」と命名.先住民の攻撃を受けるが撃退。装飾品を略奪する。
2月 カトーチェから海岸ぞいに南西に向かったコルドバの艦隊、カンペチェを経てチャンポトンに達する。チャンポトンで原住民の襲撃にあい57名が死亡.コルドバ自身も12ヶ所に傷を負い、キューバ帰島後まもなく死亡.同行したベルナル・ディアスによれば「持参したものをことごとく使い果たし,徒手で,しかも傷を負ってキューバへ帰った」
1518年
4月 240名が参加する第2次メキシコ探検隊が出発.ベラスケスの親族であるホアン・デ・グリハルバが指揮を執る。この遠征にはペドロ・デ・アルバラード,フランシスコ・モンテロも参加.
4月 ユカタン半島東北岸の神殿都市トゥルムに上陸.その後西岸のコスメル島近くに進み,カトーチェ、カンペチェを通過しチャンポトンに到達。ほとんど抵抗を受けないままチャンポトンを制圧.
6月 メキシコ探検隊、海岸沿いに,タバスコからホアン・デ・ウルア島(現ベラクルスの対岸)まで進み,アステカ王国の使者と接触.
11月 グリハルバの船団、大量の金製品を手に入れキューバに戻る。
11 キューバ総督ベラスケス,エルナン・コルテスに第三次メキシコ探検を命ずる.コルテスはメキシコそのものの征服を狙い,密かに大規模な船団を組織.サンチアゴ・デ・キューバ出発.ベルナル・ディアスがクロニスタとして参加.
12月 コルテス、いったんトリニダーに上陸し、戦力を補強。このときペドロ・アルバラード兄弟、クリストバル・デ・オリドらが隊に参加する。コルテスの真意を知ったベラスケスは,トリニダーの司令官に出航停止を命じるが、現地は黙殺.
12月 コルテス、ハバナに寄港し潮を待つ.このときハバナは北岸ではなく、カリブ海側に面していた。ベラスケスはハバナ当局にコルテスの緊急逮捕令を発するが、無視される。
1519年:コルテスのアステカ征服
2.10 コルテスはベラスケスの制止を振り切りハバナを出港.11隻の船,5百人の兵士と10門の大砲,16頭の馬などの布陣となる。
2月 コルテスの船団,ユカタン半島のコスメル島に上陸.二人のスペイン人生存者のうち,アギラールは通訳としてコルテス隊に参加.サマの町のカシケとなっていたゲレロはスペインへの復帰を拒否.
3月 コルテス,タバスコで原住民とのあいだに戦闘.大勝利をおさめる.このときマヤ語とナワトル語(アステカの公用語)の二つに通じた先住民女性を手に入れる.彼女はアステカ貴族の出自で、マリンチェ(ドーニャ・マリーナ)と名づけられた。アステカとの接触に当たっては、まずマリンチェがマヤ語に訳し、それをアギラールがスペイン語に訳する方式をとる。
4.22 コルテス,ウルア島に基地を定め,サンフアン・デ・ウルアと命名する.アステカ使節と接触するが,王との会見は拒否される.
5月 コルテス,ウルア島を離れ大陸側海岸にビリャ・リカ・デ・ラ・ベラ・クルスを建設.プエルトカレロとモンテホに財宝と承認依頼の文書を持たせ、スペインに向け旅立たせる。
ベラクルスの建設をアステカ征服に先行させたのは,自らを市の総司令官兼首席判事とすることで,スペイン王室の直接支配下に入り、ベラスケスの委任を解くのがねらい.部隊内のベラスケス派に対しては、最高幹部のモンテホをカビルド議長にすえる一方、反対するものを捕らえ鎖につなぐ。 |
5月 コルテス,ベラクルス周辺を支配するセンポアラのトトナコ族と反アステカ同盟を結び,兵員を整える.このとき建設したベラクルスは、最初の上陸地点とは別で、センポアラよりさらに北方10キロ.ベラクルスは25年に南方のアンティグア川河口に移転,さらに1599年にさらに南方,最初の上陸地であるサンフアン・デ・ウルア島対岸の現在地に移転.
8.16 コルテス,兵450名を従えアステカに向かい侵攻開始.出発にあたり自船を沈めさせ,兵士の不退転の決意を促す.ベラクルスにはエスカランテを司令官とする守備隊が残される。
8.20 コルテス軍、ハラーパから峠を越え、メキシコ中央高原に入る。
8.31 コルテス軍、トラスカラ族連合軍と最初の交戦。3千人の敵兵を撃破。その後もトラスカラ族と二回にわたり戦闘。
9.23 コルテス軍、トラスカラに入る。コルテスのスペイン国王への手紙によれば、「グラナダよりはるかに大きく、巨大な市場、宝石店、理髪店、薬屋、それに公衆浴場」があったという。トラスカラ人はコルテスへの臣従を誓い、対アステカ連合を結ぶ。軍勢は一気に数万にふくれ上がる.
10.03 コルテス軍はトラスカラを出発。アステカ人の支配するチョルーラに進み、住民の歓迎を受ける。
10.13 コルテス、チョルーラ族のアステカへの内通を疑い,奇襲により三千人を大虐殺.実際に陰謀があったか否かについては解釈が分かれている。
10 ポルトカレロの使節船がスペインに到着。コルテスのアステカ征服を知ったベラスケス派の防害のため、国王との謁見は遅れる。
11.01 コルテス軍、チョルーラを出発。ポポカテペトル山のふもとの峠を越え、ティノチテトランに向かう。
11.06 コルテス軍、ティノチテトラン湖の南端アヨツィンコに到着。モンテスーマの甥でテスココの王カカマツィンが出迎える。
11.08 コルテス,モンテスーマ二世の「歓迎」を受けアステカの首都ティノチテトランに無血入城.
11.14 コルテス,ベラクルス砦の守備隊がアステカ軍に襲われたことを知り、無抵抗のモンテスーマをとらえ軟禁する.事実上の支配権を獲得.
12月 コルテス、陰謀を立てたテスココのカカマツィン、イスタパラパ王のクイトラワク(モンテスーマの実弟)らを幽閉。
19年 ハマイカ総督フランシスコ・ガライ,アロンソ・デ・ピネーダに北米探検を指示.ピネーダはアジアへの海峡を求めて,メキシコ湾をフロリダから西進し,タンピコに達する.ミシシッピの奥地にあるという黄金豊かな国のうわさを持ち帰る.
1520年
4月 ポルトカレロら、スペイン国王と接見。コルテスのメキシコ支配権を訴えるが、認められず。
3月 キューバのベラスケス総督,コルテス討伐隊を組織。メキシコ支配と財宝接収のため20隻の船、野砲10門、馬80頭、兵員1500人を派遣.ナルバーエスが司令官となる。エスパニョーラの副王は、当初討伐隊派遣を禁止するが、平和交渉団という名目で了承。
4月中旬 ナルバエス軍、サンハン・デ・ウルアに到着。センポアラを占領し,ベラクルスの守備隊に降伏を迫る.守備隊はエスカランテが戦死、残された40人をサンドバルが指揮していたが、降伏を拒否する。
5月初め コルテス、アルバラードに首都防衛を託し、70人の軍勢とともにベラクルスに向かう。これに先んじて従軍司祭のデ・ラ・メルセドがコルテスの親書を携えナルバエスに面会。幹部に金をばら撒き懐柔作戦。
5.16 右腕アルバラード,テノチティトランで行われたアステカの儀式に乱入し、神官・貴族を大虐殺.
5.23 アステカ内の反スペイン派が反乱。モンテスーマの呼びかけで戦闘は抑えられたが、宿舎は包囲される。
5.29 コルテス軍はセンポアラのナルバエス軍を夜襲。倍の軍勢に打ち勝ち、ナルバエスを逮捕。残党兵士がコルテス軍に加わった結果、軍勢は1300名に膨れ上がる.
6.10 アルバラードによる虐殺事件を知ったコルテスは、ほぼ全軍を率いテノチティトランに向かう。
6.17 コルテス、トラスカラに到着。
6.24 コルテス、湖の北岸を回りテノチティトランに入る。反対派を懐柔するため、捕らえてあったクイトラワクらを解放。クイトラワクは枢密院会議を招集しモンテスーマに代わる最高指導者となる。
6.25 クイトラワクの指導する反乱が開始される。アステカ兵の果敢な戦いによりコルテス軍は街の中心部に追い込まれる。
6.29 コルテスの依頼を受け反乱軍の説得に当たったモンテスーマ、投石を受け死亡。コルテスはテノチティトランからの撤退を決断。
6.30 「悲しき夜」.アステカ軍が総攻撃.スペイン兵の半数にあたる450人とインディオ同盟軍4千人が倒れる.
7.01 コルテスらは,辛うじて包囲を突破.トラスカラに向け敗走.生存者は440人、ほかに馬が20頭。小銃は7丁。クイトラワクがアステカの王に即位.
7.07 コルテス軍、湖の北岸を回りトラスカラを目指す。アステカ軍はオトゥンパでコルテス軍を迎え撃つ。コルテス軍は激戦の末、アステカ軍指令官を倒し、包囲突破に成功。
7.12 コルテス軍、トラスカラに入り歓迎を受ける。
9 ニか月にわたりアステカ人のあいだに天然痘の大流行.ナルバエス軍から合流した黒人が持ち込んだとされる.クイトラワクを含む数千人が死亡.モクテスマの従弟(甥?)クアウテモク(急降下する鷲)がこれに代り指揮官に.スペイン軍追討は不可能に.天然痘は4年間にわたり大流行.メキシコの先住民人口はコルテス侵攻時の2500万人から10分の1に減少.
10月 コルテス,海岸線までの輸送ルートを確保。ナルバエスあての補給船を拿捕し軍備を増強。
12。28 コルテス、トラスカラ人1万を含む軍勢を率い、ふたたびトラスカラを出発.アナワク平原に進出し,テノチテトラン対岸のテスココ湖畔に陣地を設営.
1521年
3.20 軍を三つに分け、サンドバルの部隊が南方のイスタパラパを、オリドの部隊が南西部のコユアカンを、アルバラード部隊が西方のタクパを攻略することとなる。(あれだけ重大な失敗にもかかわらずアルバラードを最重要前線に位置づけた意味は重いものがあります)
4.28 コルテス,ベラクルスから持ち込んだ船材を用い、テスココで帆船13隻を進水させる.帆船はアステカ軍のカヌーを撃滅し水上戦を制覇.
5.20 コルテス、テノチティトランの包囲戦に入る。
6.23 アルバラード、タクパ提道上より市内突入を図るが、甚大な被害を出し敗退。
6.30 コルテス軍,テノチティトランにたてこもるクアウテモック軍に対し総攻撃を開始するが、アステカ軍の激しい反撃にあいいったん撤退。
7.25 南方から進出したコルテス軍、市内中心部まで進出。
7.28 コルテス軍と西方から侵入したアルバラード軍がトラテロルコ広場で合流。アステカ軍,兵糧ぜめにあい崩壊.
8.13 アステカ軍司令官クアウテモックが捕らえられる。テノチティトランは落城.
21年 ポンセ・デ・レオン,13年に続き再度フロリダ植民を試みる.レオンはタンパ付近で原住民の手にかかり殺害され,作戦は失敗.
1522年
5 コルテス,政府に書簡を送り,メキシコにおいてエンコミエンダ制の導入を認めるよう訴える.
10.15 カルロス5世,ヌエバ・エスパーニャ統治を承認,コルテスを総督兼軍司令官(アデランタード)に任命.コルテスはスペイン人の中から互選で議員を選び,市会(カビルド)を組織.
22年 コルテスはアカプルコに探検隊を送り香料諸島への中継基地建設を試みる.
22 ルイス・マリンによって率いられたスペイン人が,エスピリトゥ・サント(グアサクアルコ)の基地から出発.チアパンに侵入.
1523年
6 カルロス5世,エンコミエンダ制の導入を求めるコルテスの訴えを却下.ヌエバエスパーニャでのエンコミエンダ制度を禁止する勅令を発布.
12 ペドロ・デ・アルバラード,コルテスの命を受けオアハカ,グアテマラ征服に出発.クリストバル・オリドはホンジュラス征服に向かう.
23 旧アステカ王国領の平定,ほぼ完了.フランシスコ会のペドロ・デ・ガンテら,トラスカラで布教開始.テスココに原住民を対象とする学校を設立.
1524年
5.13 コルテスの求めに応じてマルティン・デ・バレンシアのひきいる12名のフランシスコ会士がウルアに上陸.中部・西部を中心に活動.この中の一人ベルナルディノ・サアグンは,アステカ文明の詳細なクロニクルを残す.
10 ホンデュラス遠征軍のクリストバル・オリド,コルテスに対し反乱.コルテスは5千の兵をひきいクアウテモクを連れ2年間にわたる討伐に出発.総督代理にアロンソ・デ・エストゥラダ.
24 ルイス・マリンの部隊,チアパス中央高地にのぼり、ツォツィルの要塞チャムーラを攻撃.
24 スペイン,インディアス枢機会議を設置.コルテスのヌエバエスパーニャにおける権力を剥奪する策動が始まる.王室はメキシコに徴税担当官を送り、植民地経営を国王直属下におく.
25.10 コルテス,進軍中クアウテモクの挙動に不審を抱き,カンデラリア河畔のアカラン・マヤ族の町イツァームカナクで絞首刑に処す.
25年 ルカス・バスケス・デ・アイヨン,フロリダから北上し,南カロライナ一帯を探索.
1526年
26年 王室の任命した裁判官ルイス・ポンセ・デ・レオン,メキシコ入り.コルテスの不在中にインディオ奴隷化禁止を法令化するなど征服者の権限統制を強化.コルテスはホンジュラスからメキシコに戻るが,権力の回復はならず.
12月 コルテスの部下フランシスコ・デ・モンテホ,国王にマヤ王国遠征を申請.アデランダードの承認を受け,ユカタン半島およびコスメル島の征服を許可される.
26年 フランシスコ会に続いてドミニコ会がメキシコに入る.オアハカなど南部で伝道活動.(のちにラスカサスも,ドミニコ会の一員としてチアパスでの伝道に加わる).33年にはアグスティヌス会も布教開始.
26年 ルカス・バスケス,現サウスカロライナ州ピーディ河口にスペイン人植民地サン・ミゲル・ガウダーペ建設.黒人奴隷の反抗により放棄.
1527年
9月 モンテホ,4隻の船と4百名の部下をひきい第1回目のマヤ族征服に乗り出す.グアテマラを経由してユカタン低地に入ったモンテホは,チチェン・イッツァのカシーケと同盟を結び,トルムとチェトマルを制圧.さらにユカタン半島東岸(現ベリーズ)を北上.
12 スペイン,メキシコにアウディエンシア設置を命ずる一方,コルテスを本国に召還.ポンセ・デ・レオンはコルテスを罷免し,自ら総督の地位に就く.メキシコでは領土の支配権をめぐり混乱.
12 フランシスコ会士フアン・デ・スマラガ,メキシコの初代司教に任命.人文主義をメキシコに広める.一方でアステカ族の500の神殿を倒し,2万もの偶像を破壊し,宗教書を焼きつくす.
27 ディエゴ・デ・マサリエゴス率いるスペイン部隊,チアパンとツォツィルを征服.ヌエバ・エスパーニャ総督代理アロンソ・デ・エストゥラダの指示によるもの.
27年 パンフィロ・デ・ナルバエス,ポンセが挫折したフロリダの先遣都督(アデランダード)に任じられる.500の兵を率いサンチアゴ・デ・クーバを出発.
1528年
3月 コルテス、メキシコを出発しスペインに向かう。本国に戻ったコルテスは,権益保護のため活動するも認められず.
4.14 ナルバエスの艦隊はミシシッピ河口附近であらしに遭遇し難破.フロリダにいったん上陸するもその後の探検を断念.部下のヌニェス・カベサ・デ・バカらスペイン人三人と黒人エステバンは,隊とはぐれたあと,8年間にわたり祈祷師としてインディオを相手に生計を立てながら,メキシコ湾の内陸部をテキサスからメキシコ北部にかけ放浪.